琵琶湖の金輪際と臍と桐壺 - 「龍の棲む日本」

[段落ひとつ分を追記。]

龍の棲む日本 (岩波新書)

龍の棲む日本 (岩波新書)

中世には、日本の国土を龍が守っている、という考え方があったらしい(蒙古襲来とかがあった頃の話だと思えば、守護神待望の世相がわかろうというもの)。でも、龍は地震や火山の爆発を引き起こす恐ろしい生き物でもあって、その頭を要石で押さえていると考えられていたのだとか。

西の要石が琵琶湖の竹生島で、この龍を抑え鎮める要石は、仏教の考え方を入れて、地中の最深部まで届く支柱「金輪際」と表象されていたらしい。(あきらかに神仏習合してます。あと、龍ではなく獅子が舞う伊勢大神楽でも竹生島は巡回中に必ず立ち寄る特別な場所みたい。島へ渡る道中、船の上などで、大夫さんは大栗裕「大阪俗謡による幻想曲」でピッコロが吹くのと同じ、あの道中囃子を吹いたりするそうです。ここも色々な綾があります。)

ともあれ、金輪際ってそういう意味だったんですね。

OS-085 西村朗 太陽の臍 オーケストラと箒篥のための音楽 (現代管弦楽シリーズ)

OS-085 西村朗 太陽の臍 オーケストラと箒篥のための音楽 (現代管弦楽シリーズ)

琵琶湖に龍が棲む、という伝承は、おそらくそうだろうと思いましたが、かなり大きな広がりのある話であるらしい。「太陽の臍」を書いた作曲家が、「三井の晩鐘」はちゃんとした形で上演しておくべきだ、と考えたのは、なんとなくわかるような気がします。

「日本」に作曲家として触るときの構えが似ている。同世代なのだと思う。知っているのに知らんふりして「作曲家の領分」を確保して、「それ」と対峙するリスクと責任は、譜面を書いた人ではなく、実際に舞台に立つ人が負うことになる。賢いと言えば賢いが、舞台に立つ人間はそれでは済まない。構造は、設計図を書く学者・官僚と、現場作業員がくっきり分かれている原子力行政と一緒だ。だからダメ、ということではなく、そのことをちゃんと見せることが大事。舞台芸術は「見せる」ことに意味がある。

[作曲家と演奏家の関係は、お互いを尊敬しあっていたり、お互いを利用しあっていたり、一方が他方に頼み込んだり、一方が他方をわざと特殊な状況へ追い込んだり、千差万別であり、邦楽器と洋楽器のコラボレーションにおける両者の関係も、それぞれが置かれている状況等の変数により刻々と変化している。「設計→実行」という形は、決して普遍・当たり前ではありません。「動員」の形態と方法は無数にある。]

(……とかいう風に、「お話」を作って面白さを広げるやり方もあるだろうに。もちろんしかるべき人に頼めば、しかるべきことを書いてくれるだろうけれど、それを咀嚼して自分の言葉や行動に反映しないと意味がない。もちろんそうなると自分が責任を負うことになるので、おかしなことを言ってしまう/やってしまえば、つっこまれるわけだが、それが「責任ある立場」を引き受けるということであろうかと思われる。

そないしても、みんな、やっとりまんがな。

とはいえ、縦横にジャンルを横断しせざるを得ない案件で、上の本を書いた黒田日出男先生は、今では専門の細分化がとことん進んで、もはや「タコツボ」ではなく「桐壺」だ、とダジャレをあとがきに書いていらっしゃいますが、その境地にたどりつくのが大変なのも事実ではある。

そしてそれでも少しは何かやろうとする姿勢を示すから、勲章もらったり表彰されたりするわけで、そのことに敬意を払いつつ、わかることはわかる、わからんことはわからんなりで、自分の頭で考えないと、物事は先へ進まん。他人の言葉と仕事をそのまま横流ししても、たぶんそこからは何も生まれない。

我がこととして受け止めるか、右から左へ情報が素速く通抜けていくか。外見はほとんど変わらないけれど、でも、その違いは厳然とあって、傍目には瞬時にわかってしまうから、世の中は恐いものだと思う。)