研究の目的

なるほど、「好きなもの研究」の是非じゃなくて、「研究対象にこれを選んだのは、たまらなく好きだからです。だって、○○はホントにホ〜ントにすごいんです」と書かれたレポートを読むのが辛いという話か。

その対象をこの学科で扱うとしたら、こういう視点がある、とりあえず、こういう方向からここを調べてみれば、と、歩き始めるきっかけを指導教官が与えてはいけないのだろうか。

話が動き出すきっかけを見つけるのは、個人の能力というより経験値の問題で、若いもんに自力で見つけさせる必要はないような気がする。

仔馬は自力で立てるように生まれてくるから、助けちゃだめだと聞くけれど、人間は自力で人文科学の研究テーマとその目的を見つけ出すことができるようには生まれついていない気がする。

ちゃんと鉱脈のあるところを掘る体験をさせてあげたほうが、その人の大学人生は幸福だろうと思うし、それでも何も出てこなかったときに「失敗から学ぶ」やり方も、教えてあげれば、何か人生の役には立つかも知れないし。

逆に言うと、テーマの選び方から指導した先生の力がある程度わかってしまうところがあるような気がする。先生のマネしか学生がしないところは、おそらく、先生自身のツブシが効かないんだろうなあ、とか。具体的な対象はヴァラエティに富んでいるけれど、問題を扱う構えみたいなところが共通する、とか、よくこれだけ色んな学生が出てくるよなあ、とか。

(私は、どちらかといえば妙な入口を色々思いつくほうだと自覚しますが、あまりそんな風にキョロキョロして何にでも落ち着きなく興味を持つ人のほうが少ないらしいことに最近気がついた。でも、ある程度わかったら飽きちゃうから、このように(笑)大成はしないし、私にものを習おうという酔狂な変人はいない(そんなの、来られたらこっちが困る)。それに、調べ物のネタは色々みつけるのだけれど、コンサートの企画・選曲とか、イベントの構成とか、そういう人気重視のアイデアを出すのは、我ながらガッカリするほどヘタクソで苦手だ。世の中は、調べ物のネタを見つける才覚よりも、そういう人気が出るアイデアを豊富に持つ人のほうをより強く求めている。変人は変人ぶりを見世物にするくらいしか、することはない。)

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ところで、ファリャ「三角帽子」の日本における受容史を調べたいのですが、先生、どこから手を付けたらいいのでしょう。フラメンコ受容史は、どこかにまとまっているのでしょうか?