生存確率

團伊玖磨や芥川也寸志が東京音楽学校から陸軍学校の音楽隊に回されたのは、そうやって優秀な学生を兵隊に取られないようにしたのだ、という話になっている。(少なくとも彼ら自身はそう認識していたらしい。)

声明文に自分の名前を貸すのは決して悪いことではないとは思うし、そういうときに上手に人を動かす才覚のある人がいることもわかったけれど、最悪の時代になったときに、(次の時代へ残したい人や物の)生存確率を高めるために何ができるか。そういう種類のことに体を張るのが、「先生」という立場の人間の真っ先に考えるべきことではないだろうか。

歴史家やアーカイヴの職員だったら史料を守る、とか。

権力の座にある人が焦っているときこそ、それとは別の場所で何らかの責任を負っている人は冷静でなければならないと思う。みんながお祭りに参加した安保は、2回とも上手くいかなかったわけで……。

あの法律はいかにも筋が悪そうだから、撤回したほうがいい。それは政治家が悪いというだけでなく、政治家にああいう筋の悪い法案を入れ知恵してしまうということは、今の政策立案スタッフ(政府なのか党なのか)のレヴェルが低いと思われ、そこが一番問題じゃないかと思いますが……。法律を作るプロは何をしているのか、と。

誰が素案を作ったのか? 「問題」が発生したときは、その「問題」がどのように構築されたか、そのメカニズムを探るのが今風のナウい社会科学、「本質主義」の魔の手に絡め取られない賢い態度ではないのか。取材とか、誰もしていないのだろうか。

方法としての構築主義

方法としての構築主義