ユートピアとしての「緩さ」

アンシャンレジームにおける啓蒙と古典主義(おおらかな古代人は素晴らしい)とか、産業革命と都市への人口流入期におけるロマン主義(森の民の「こえ/うた」を聴け、それこそがもうひとつの世界の扉を開く呪文なのだ)とか、と同じように、「緩い」ことは、管理・監視と情報化と総動員の20世紀のユートピアだったのだろうと思う。

「緩さ」の射程は広いのかもしれない。

でも、あくまでそれは、現実の居眠りとか、現実のBGMとか、現実のノイズとか、現実のショッピングモールのだらけた休日とは別の位相の、そこから反省的に見いだされる可能態、ユートピアなのだろうと思う。

そのようにして、反省的(再帰的?)に可能態、ユートピアを見いだすような社会との位置取りに知識人が退屈するのは、果たしていつのことなのか、という問いは、20世紀のユートピア思想を理論化する「お仕事」とは別の次元で、保持しておいた方が良い。

……というか、「緩さ」の理論は、そういう新しいユートピア論に回収されそうな気配があって、そこをすり抜けるだけの緩さを、「「緩さ」の理論」が装着できるものなのかどうか。ジョン・ケージ論が典型的にそうだけど、この種の議論はいつもそこで足が止まるような気がする。まだ誰も証明できていない数学の有名な未解決問題みたいな感じ。

スローモーション考―残像に秘められた文化

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文学を〈凝視する〉

文学を〈凝視する〉

本文とは直接関係ありませんが(=本文は阿部公彦氏を論評しているわけではありませんが)、それはそれとして、阿部公彦さんのとぼけたような、ちゃんとしてるような文章の面白さをどう説明したらいいのか。本人だったら上手に読み解くことができるのだろうか。阿部公彦氏が阿部公彦氏の文章を阿部公彦氏の文体で評論するのを読んでみたい、かも。