昭和末期の常識がどこまで通じるものなのか……

「平成、終わったな」と、このところ日々思うわけですが、それはたぶん、昭和末期(バブリーなイメージで代表されるような)を知らない人たちが世の中にどんどん出てきて、新しい発想でいろいろなことを切り盛りしはじめる準備が整いつつある、ということだと思う。

歴史の大転換、とか、センセーショナルな話に仕立てるかどうかはともかく、

「クラッシック音楽」を長持ちさせようと思ったら、その嫌みな感じや、華やかな感じ、お勉強な感じ、など、諸々含めて、その周りに配置している「お話」を、この機会にひとつずつ点検する良い機会なのかもしれぬ。

(だってアナタ、岡田暁生がぐんぐんノシて来た15年と、サムラゴーチが売れないロック歌手から、全国が涙する偽ベートーヴェンへと大きくなった18年は、まったくの同時代の出来事、ぴったり重なってしまうザマスわよ。まあ、どーしましょ。年齢だってそれほどは違わないし、二人とも長髪なのヨ。人生って紙一重なのかしらねえ……。)

「オレは、生きてる間に全財産を使い切る。あとのことは勝手にしろ」と言う人がいたりもするが、はっきり言って、あんたの一生で使い切ることができるほど安いもんじゃないのよ。そしてそんなことを言ってると、言ってる本人がどんどん「小人物」に見えてくる。世の中はひとりで全部を制御できないようになっていて、当人の意図とは違う力学が作動してしまうんだよね。

(たとえばティーレマンという人は、本人がやったり言ったりしているのとは違う作用が周囲に巻き起こることで成立している格好の事例だと思う。)

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あるいはたとえば、正規雇用/非正規雇用という区分があって、バブリーでトレンディーな都会のおとぎ話は、全部、正規雇用なお兄さん、お姉さんのアフターファイブの夢物語だったんだよね。

その頭のままでいると、私たちに夢を与えてくれるすばらしい人材は、すべて「正規」(とその人たちが考える形態)で雇用されているはずだ、さらに言えば、「正規」で雇用されていない者が、私たちに夢を与えてくれることなどありえない、と不安や妄想が広がったりするのかもしれない。(念のために申し上げるが、この思考は推論の手順に飛躍があって、間違いなので、少しはお勉強しましょうね。)

でも……、

これは、今、説明抜きに言ってしまうと誤解を招いてしまう言い方かもしれないけれど、

私は、音楽家を「大学」(その先に新卒正規雇用というゴールを想定するような昭和のニッポン方式の)の枠で作るのは、本当に現状でベストのソリューションなのか、検討すべきことが色々あるような気がしている。

「大学」じゃない新しいしくみを考える、というのがどれくらい現実的なのか、さっぱりわからんので、そっちの道については何も言えない。

でも、とりあえずのキャリアとしては「大学」に所属するけれども、その先で「新規」に「正規」じゃないところへ人が散っていくのは、もしかすると、むしろ若い人たちのほうが、オッサン、オバハンたちよりも、現実がよく見えているのかもしれない。

わたくしが日々接するのは、ごくかぎられた場面での彼らの姿でしかないけれど、音大生のしたたかな行動力は大したものだし、そこは、今も昔も、そんなに変わってないんじゃないか、という印象を持っている。あの子どうなったんだろう、とその後を眺めていると、そのあたりを見る人はちゃんと見て、良い形で人生がつながっていったりしているようだ。

(そして逆に、あそこは「一人でも多く正規で取ってあげるから、うちへいらっしゃい」と人集めをするけれど実際はこうこうで、とか、そうはいっても、まあとりあえずあそこかな、とか、オッサン、オバハンたちのことを、みんな、めっちゃシビアに査定してるよ、たぶん。)