「このたびはうちの息子が大変なご迷惑をおかけして……」

「正確な絶対音感をもつ私の耳には、信号のビープ音の童謡の“音痴”が耐えられない。最後の終止音が外れているのを聞いてしまうと一日気分が悪い。ああいうものを平気で放置するから、日本という国は……」

とか、

「フィギュア・スケートの音楽、あのデタラメなツギハギはどうにかならないのか。そこでこう来るか、と心臓に悪い。ちゃんとした作曲家に監修させないのは日本の恥だ」

みたいな発言は、さすがにもう相当レアにはなったけれど、何かの拍子に休火山が鳴動するように出てくることがあって、そういうのに接すると、

この人は子供のころから、何かというと周囲と軋轢を起こして、ママがあとで相手のところへ菓子折もって謝りに行ったのかなあ、と想像してしまう。(最近は、親のほうがモンスターになっていることもあるとの噂なので、親子まとめてややこしい一家になっていたりする場合もあるのだろうか。)

別の原則で動いてるとこへ口出しするのは単純に僭越なわけで、「才能」なるものを甘やかすのと、多様性を肯定するのは、かなり違うことですもんね。言いたい放題を許すのは、私やその関係者が「才能」であると信じているものを、あなたにも信じてもらわなければ困る、という風に、いわば無言の同意・同調を求めているわけで、その結果もたらされる黙認は、多様性を保証するどころか、むしろ、圧殺しているし、そういう無言の黙認の輪を広げた先に「天才音楽家○○の国際的成功への国民的感動」が生まれるとしたら、それは相当に気色が悪い。

わかる人にしかわからない、かもしれない、ピッチのピシっと整った音楽が音楽堂の中で鳴っていて、その手前の道路脇で、ピ〜ピロリ〜、とプヨプヨした音が鳴っている光景は、むしろ愉快だ。

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前のエントリーでは「政治」という言い方をしましたが、もうちょっと考えたら、あれはむしろ、芸術への忠誠心と、権威への依存を混同した症例のような気がしてきた。

仮に音楽というものが、神殿に似た崇高な価値へと一歩ずつ近づいていく修行のようなものであり、なおかつ、そこで門外不出の秘儀が伝承されているのだとしたら、神殿の外の者との接触に制限を加えることが、もしかするとあるかもしれない。

でも、狂信的なカルトとして社会との軋轢を引き起こす悪性で生乾きの教団でないかぎり、通常、同時に外部との安定した関係を構築するロジックを用意しているんじゃないかと思う。一般的な宗教は、たぶん、そうなっている。

でも、

「こんなこともわからない人とは、口もききたくないわ」

という捨て台詞は、そういう秘教的な価値への忠誠ではなく、権威への依存が生み出す症状であるように見える。王様の寵愛を得て、我が世の春を謳歌している愛人さんが、ライヴァルを蹴落とし、今まで私のことを見下してきた者たちを見返す、とか、そういう感じがする。ポンパドゥール夫人の栄華とルイ15世の死による凋落、みたいな……。

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同じソフィア・コッポラの映画だと、東京で「出稼ぎ」させられているハリウッドの俳優(ビル・マーレイ)が、ニッポンジン相手にくっきりはっきりした発音で話すことを強いられていたのが、滞在するホテルのバーで同じアメリカ人の女の子(大卒、既婚)とツーショットになったところで、突然リラックスした小声でぼそぼその、でも情報量の多そうな口調に変化するのが、観ていてドキリとするような「外」と「内」の使い分けかなあ、と思った。(このシーンでわたくしはまったくヒアリングできなくなって、置いてけぼりになったし(笑)。)

中年男と若い女の会話ではあるけれど、そういう芝居がかったラブシーン(ハンフリー・ボガードがイングリット・バーグマンの「瞳に乾杯」するような)とは違うタイプの心の通じ方。まあ、それが映画のテーマ、ということだと思いますが。

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日本のクラシック音楽には、マッチョではないタイプの妙なこじれが、今もやっぱり残っているのかもしれない。

(某氏は、むしろ誰でも聞いたらスゲーと思えるタイプの、意志の強いカッチリしたピアノを好む傾向が顕著なので、そんなにジメジメした物言いをしなくたってよさそうに思うんだけど。)