それは今も「情報・サービス、第三次産業」なのか?

唐突に極端な「お話」を作りたくなったのは、そのことを考えてみたかったからなわけだが、

とりあえず、20世紀にグレン・グールドの住むカナダの街のかなり強固にカトリックっぽいおっちゃんが「メディアはメッセージである」と言った。(同じ人物が「メディアはマッサージである」というダジャレも言った。困った人です。)

で、この発言自体は様々な方向へ解釈・活用できる可能性がありそうだとされているが、わかりやすく手っ取り早い受け止め方として、「大衆社会でプロパガンダ(宣伝)は強力な武器になる」とか、「メディアを制する者が情報社会を制する」とか、という意味合いでこの言葉が理解されたように思う。

だから、「ジョーホーシャカイ」で「マス」にリーチするためには、とにかくまず、「メディア」にならねばならん、という感じになった。

そしてそういう空気のなかで生きるのが習い性になっていると、音楽堂もまた「メディア」になろうとするだろうし、「音楽堂はメッセージである」と高らかに宣言できることを目指したりするんだろうな、と空想したわけ。

でも、そういう風にして出てきた結果は、なんか、めちゃうるさくて、わずらわしいことが増えそうで嫌な感じだから、これはきっと、どこかに目論見違いや「想定外」があるんとちゃうやろか、と話を検証、検算したくなる。

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イベントをやる場所のことをよく「箱」と言いますが、たしかに「箱」には「箱」のメッセージがあろうかと思う。

そして「箱」の中身は、広い意味での流通と提携して充填されるわけだから、この「箱」は、一種のメディアなのだろう、とも思う。

そうすると、「箱」のメッセージとはいかなるものか、というところが、きっと問題なんだろう。

メッセージの解読をすぐにやる準備はないけれど、とりあえず、この「箱」の中身は、モノ(通常の流通・小売りが扱うような商品)ではなく、情報(20世紀のマスメディアの花形であった放送や、19世紀のマスメディアの花形であった出版が扱うような)でもなく、ヒトなので、ヒトの世話をする商売に携わってきた業者さんが意外に上手に適応するのは、そうなってみると、なるほどな、と思ったりする。

わたしらは、みんな、おそらく「ヒト」なわけだが、「ヒト」だからといって、「ヒト」の扱いのプロだとは限らない。やっぱり、「ヒトの扱い」にもプロがあって、ひと味もふた味も違うんだ、みたいのが、「メッセージ」になりうるかもしれない。

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20世紀の半ば頃には「これからは情報とサービスの時代が来る」とさかんに予言されて、情報とサービスが、自然の加工(第一次産業)、人工的な大規模専門施設(工場)における自然科学の応用=機械生産や化学的合成(第二次産業)に次ぐ第三次産業だ、とか、「第三の波」だ、ということでみんな、わっとそっちへ動いたわけだけれども、

ほんまにここで、産業(勤勉)の発展段階が最終局面へたどりついたのかどうか、20世紀の予言がほんとに有効であり続けるのかどうか、もっと別の「次の波」が来るかもしれず、既にもう準備されつつあるのかもしれないけれど、そこのところは、今は誰にもわからない。

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「産業(勤勉)」という発想そのものが無効になったんとちゃうか、という「低成長」説が今は良識派だとされるようではあるけれど、ノンビリいこう、の宣言が早すぎる。「性急なスロー宣言はいかがなものか」「急ブレーキは危ないよ」と、言ってみたいような気もする。

それから、農業や重化学工場が、「情報社会」になったからといって消滅するわけじゃないように、「次の波」が来たとしても情報・サービス業がなくなるわけではないだろうから、そのフィールドで頑張る人は、その道をどんどん進んで、ますます頑張ったらええと思う。

で、

それはそれとして、どうも「情報・サービス業」が怪しい気がしてならない。

少なくとも、この分野がいつまで世の「主流」なのか、わかったもんじゃないのだから、過剰に無理矢理「情報化・サービス強化」にすり寄る必要はないかもしれないような気がする。

周りを見渡すと、論の立て方の具体的な詳細については賛否があるだろうけれど、大学の先生たちを中心にして、教育を「情報・サービス業」に括られるのは、ちと困る、という声が、最近また、かなり大きくなっていたりするじゃないですか。

「ヒトのあしらい」は、本当に「情報・サービス」と呼んでいいのか。「情報・サービス」の追求が、かえって、ヒトを邪険に扱ったり、不自由にしてしまうことにつながっている場面がないか?

たぶん、このあたりの微妙なところをバシっと裁く何かを見つけると、大きな当たりを引き当てられるんとちゃうやろか。

怪しい予想屋みたいな話だが。