加速度は下品な庶民の所作である(という感性)

承前。

バロック・ダンスは、ニュートン的な力学で構成された「人間界」を「支配」する統治の一環だが、この際、「神の領域」にかぎりなく近い静止と等速運動(を模倣すること)が基本になって、重力に抗うドッコイショの力感溢れる跳躍等々、下品な所作を排除したように見える。世界劇場、劇場としての世界は、静止と等速運動が織りなす王の「思わずハッと息を飲むわざの数々 = beaux arts」のもとで、永遠にこのようであり続けるのです。

(「beauty」とはそういうもので、平安王朝文学の「いと、うつくし」とは、あんまし関係ないと思う。かなり残酷な闘う騎馬民族が信奉する価値。フーコーが「権力」として抗いたくなる種類の何かですよ、だから花の「美しさ」は、和歌に詠めば物狂おしい思いが鎮まるかもしれないけれど、beauty を語るときには、そのように植物の生殖器官がまがまがしく露出していることに対して、ヒトという生き物がどのように反応するか、みたいな話になっていくのではないかしら。だからこそ、火山の大爆発の sublime、オオオオ、スゲーーーーーと言葉を失う体験と並べて、判断力が批判・吟味されるわけだ。エステティークは、思惟の裂け目と向き合う究極の危機管理です。)

一方、市民が抱き合うカップルダンスとして一世を風靡したワルツは、三拍子のエンジンをグルグル回して、遠心力とかなんとかかんとかで酩酊・陶酔に至り、「地上の支配者」たちを出し抜くのだから、舞踊における産業・勤勉革命である。ブンチャッチャ、ブンチャッチャ……♪

(そして重力を離脱したかのように見えるロマンティック・バレエは、妖精のような超自然的存在の踊りへと読み替えられた。もう「王様」はいらない。)

かなり怪しいトンデモ文化論ですが、使ってみたくなる思いつき。