一点物の価値

この日ここでしか行われない正真正銘の一回限り・一点物のコンサートというのは、実は数としてはたくさんあるのだけれど、一般の音楽ファンの方は、ワールドツアーを敢行できるだけの知名度と集客力のある人の情報が主に伝わりますから、結果的に、ライヴ・コンサートといっても、実はほぼ同じことが昨日も明日も行われているし、それだけ繰り返すことができるくらいに練り上げられているものに接することのほうが圧倒的に多いかと思います。

(アンコールでソナタ1曲丸ごと弾いてくれるなんでびっくり!と感動していたら、実は、数日後のそこでも、あそこでも、彼は同じようにボリュームたっぷりのアンコールを披露していた、とかね。)

で、地元の音楽家のコンサートでも、行けば何かを感じることができるものはあるのだけれど、なかなかそういうものとつきあう「勘所」がつかめないのかもしれない。

毎回、そのコンサートのためだけに厳選した音楽家を「外国から」招聘するシリーズは、企画するのも実現するのもよほど条件が整わないと難しいし、今では貴重だと思います。まして大阪では。

毎回盛況なのは、シリーズのテーマなどもさることながら、様々な巡り合わせで、「一点物」の面白さにお客様が目覚めるきっかけになっているか、あるいは、やっぱりお客さんというのは、オーダーメイドの一点物の良さをもともとご存じなのかもしれませんね。

オルガン音楽が奏者によってどれだけ変わるか、というのは、普段まったく想像できないでしょうから、オーダーメイドの魅力がわかりやすいのかもしれませんし。奏者がひとりだけで、まったく同じ楽器をその人の判断で違った風に操作して、聞き比べには格好の条件が整っていますから……。これは予期せぬ発見、なのかも。

とはいえ、「好き」という価値基準でバッハと自分を結びつけることのできる人というのは、ちょっと私の理解を超えているけれど。一種のファザコンなのかなあ……(http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20140224/p1 こんな感じの理論の人に「感情移入」するのは、倒錯だと思う、理性と感情が混線しているような…… http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20140319/p5)。悩める魂をクラシック音楽が惹きつけてしまう問題再燃。クラシック音楽が「苦手」という人がいるのは、少なくとも現状では、「難しいから」というより、周囲にウェットな何かをまとわりつかせてしまうからではないだろうか。坂本龍一のテレビ番組で、浅田彰と岡田暁生の洛星コンビが並んでハルサイに大喜びしている姿のほうが、はるかに健全に見えてしまう。ポリーニがかつて「ペトルーシュカ」を嬉々として弾いていたのを思い出す。

(あと、英語圏からお客様が来ると俄然「カンヴァセーション」にリキが入る人というのは、これはまあ、日本の特定の世代にありがちだよね。ハイハイって感じ。会話には、流暢さと「中身」と2つのポイントがあるんよ。)