それはヒューエル・タークイとどこが違うのか?

メディアが評論家を専属で雇う、というようなシステムがある場合は話が別だと思いますが、

むしろ現状は、評論家が「業界人」として音楽家と近すぎると問題が起きやすく、孤高を気取って世間知らずになる危険と、無節操な業界通になりすぎる危険の両方を個人で塩梅しないとやっていけないことになっているのではないでしょうか。

ご存じの上で「敢えて」書いていらっしゃるのだとは思いますが(笑)。

つまり、メディアが評論家を雇って記者に準じるモラルを求める代わりに、評論家のジャーナリスティックな発言が引き起こすであろうトラブルにはそのメディアが対処する、という形であれば、かなりツッコんだ取材をして、踏み込んだ勝負ができるかもしれないけれど、今はそういう兵站なしに全部「自衛」なので、永世中立っぽい感じにどうしてもなる。

で、「私は私がいいと思うものだけを書く、あとは世界がどうなろうと知らない」という態度は、やや過剰気味に身を護っているのだと思います。誘惑に辟易してそうなる人が出てくるのは、ある程度しょうがない。(たぶん吉田秀和はそんな感じ。)あるいは、完全な風来坊と化して、風の向くまま「旅」をして、うまい/まずい、と感想をひたすら書くか、ですよね。

しかも、

ヒョーロンカは業界最下層で施しを受けている乞食なのだから、我々が最高級の食事を与えてやっているのをありがたく受け取っていればいいのだ、と考えるバカは、いつの時代でも一定数必ずいます。

日本で英語圏からの客人が歓迎され、あるいは、「地方」で東京の評論家が歓待されるのは、そういうドメスティックな面倒ごと抜きにつきあうことができて、いわば「気楽」なんだと思います。現実から逃避して、「まれびと」の夢が見たいんですよ。

(夢はお客様にお見せするものであって、裏方が夢見がちでどないすんねん、と私などは思ってしまいますが……。修禅寺物語で頼家に接近して、一緒に殺されちゃう「意識の高い」お姉ちゃんですね。)

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で、それはともかく、書いたものを誰がどのように使うか、ある程度予想されるからこそ、良い仕事をしている人のことをちゃんと伝えなければいけないし、逆に、コピペに博士号を出すような安売りをしてはいけない、という程度のことは、たいていの人が自覚していると思います。

こっちが気持ちを張って書いても、色眼鏡で見る人たちは、そこらをうろついてる乞食の言葉なんて使えるか、と思うのかもしれないし、そうじゃなくても、

「こんな文章じゃ広報に使えないよ」

という文句はあるかもしれず、その場合は、なるほどこちらの力不足については真摯に受け止めさせていただきますが、

「こんな演奏じゃ評価できないよ」

と言い返される覚悟は、常に持っていただきたい。

おそらくそれが、「業界人」どうしの率直な会話というものでしょう。

そんな感じに日々粛々と仕事をしているつもりですし、ヒョーロンカは業界の「どこ」にいるのか、というアングルは、あまり華々しく特別な何かが出てくる切り口ではない気がするのですけれど……。

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むしろ、先般日本へ来た某氏の件は、例えば1960年代の日本のゲンダイオンガクでイイ商売をしたタークイと、どこがどう違うのか、たいして違わないのか、というようなことのほうが、英語圏の批評と日本語圏の批評の関係が、今変わりつつあるのかどうかを測る材料としては、いいんじゃないでしょうか。

ぶっちゃけ、これまでに伝えられている情報だけでは、某氏が、タークイやドナルド・キーンのような「親日アメリカ人」という類型とどうちがうのか、いまいちよくわかっていないので……。