二番手理論

長いシリーズの「1回目」を必ず逃す人、というのがいるようだ。

世の中には、ひょっとすると、先頭に立つことを回避する心的機構を装填した個体が存在する、ということなのだろうか。

竹内洋の「戦後中間層=亜インテリ」論に革新幻想批判をまぶしたり、日本辺境論がリベラルと融合したり、あるいは、よくわからないけれども「雪国の風土」理論とか色々あって、「それでいいのだ」と、そのような心性を慰撫しつつ理論武装して、「二番手こそが最先端」という不思議な詭弁が成立してしまうのかもしれない。

「日本のGNP(という言葉が当時主流だった)は世界第二位」だった時代が懐かしいからといって、「国民なるもの」(実体は曖昧)のひとりひとりが、いつまでも律儀に二番手に徹することもなかろう。

初物・1回目「だけ」行って、あとは知らんぷりする軽薄さへの痛快な批判だ、とでも思ってるのだろうか?

「無謀な戦争」ではない最初の一歩、というのはいくらでもありうるのだし、踏み出すときは踏みだしゃいいんだよ。失敗したらやり直せばいい。(というより、やり直しの余地や逃げ道を上手に確保して致命傷を回避しながら、それでも次へ踏み出さざるを得ないのが「文明」というもんじゃないのか、科学とかアートとか。)踏み出さないことの理由を探して呻吟している暇があるんだったら、コンサートくらい、こっそり周囲の出方をうかがってないで、1回目から行け。幸か不幸か、コンサートに行くぐらいでは生命の危険はないのだから。

あとからどれほど「愛情」を注いでも、1回目は戻ってこないよ。

半ば意図的に1回目を逃す行為は、モダニズムの特徴と言われることもある「故郷喪失」、「起源なき前進」とは似て非なる茶番だ。(それらは、「はじまり」が既に起源や故郷ではないような構造を指し示す言葉なのだから。)ときには息抜きの茶番も悪くないが、本番は本番でちゃんとしようよ。

(しかしなんで今頃、吉本隆明なの)