いかにもプロっぽく見せる虚勢の行方:いてもたってもいられない情報空間vsそこにいて立っていられる現実世界

焦りは禁物。

昔ながらの「社交」であれ、今どきの「ソーシャル」であれ、「情報交換」だけでは、友情もビジネスも、善も悪も、それだけでは成立しない。

昨夜も、監視社会風の道具立てのなかで「悩める魂」が事件を起こすドラマをやってましたが(トヨエツや鈴木保奈美がテレビ朝日に出る時代なのですねえ)、

「いてもたってもいられない」の精神で情報に介入しても、それだけでは何も動かんよ。

そこにいて、立っていられる人は、そこで立ってできることをやるのが基本。

かつて「おせっかい」とか「でしゃばり」という言葉があったのを、君は覚えているか? もちろん、そういう世話焼きがほほえましく世間の潤滑油になるポジションというのもあり得るが、君がいまそこに「いて」、「立っている」場所は、ほんとうにそういう場所なのか、だよね。

(ドラマの場合は、ドラマなので、「私がやらなきゃ誰がやる」という設定に人物を追い込むわけだが、日常生活で、そんなこと、それほどあるまい。)

「いてもたってもいられない」な情報の世界へその個体を引っ張り込むことで、その個体に一定の役割を与えることが可能になるとしても、それが同時に「人間をやめる」ことだったりすると怖いよね。

ドラマとしては、そんなに新味はないけれど、周囲を眺めていると、これくらい大づかみな物語を投与するのがちょうど良い感じに、人間が粗雑な引っこ抜き方をされる恐怖が蔓延しているのかもしれないね。

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相手を本当にプロと認めるのであれば、己のプロフェッショナルな部分の名誉と責任を賭けて、プロ同士の仕事をしなさい。私的な「おともだち」なんだったら、私的につきあいなさい。

(そしてもし、「アマチュア(もしかしたらそこに「私」も含まれる)にもわかりやすい説明をしてくれることは、ありがたく、きっと貴重なものだと思われるので、他の人にも紹介したい」というのであれば、そのように率直に書くべきだ。もしそういうことが言いたかったのであれば、それはつまり、「私にはプロがプロであるために何が必要なのか、何かが必要ではあるのだろうけれども、それは私にはわからないけれど……、とりあえず、アマチュアから見たときのあなたの言葉の価値についてだったら、私にも何か言えることがありそうだ」という文脈で言葉が発せられているはずです。だとすれば、どうしてそういうことを言うときに、虚勢を張って「プロ」などという物騒な言葉を持ち出すのか。その虚勢は、いったい何を目指しているのか? そのように虚勢が蔓延する業界の風土、虚勢ベースのパブリシティが、先に世間を騒がせたような詐欺師の潜在的な温床になったのではなかったか。何かを「いかにもプロっぽくみせる虚勢」の虚しさが問題になってるはずです。そういう反省はないのか。虚勢を張らなくても、仕事は順調で中身のしっかりしたものなのだからもう十分でしょう。これ以上何を望むのか。)

ソーシャルなんとか、みたいのは、このあたりがちゃんと確立できた次の段階の話だ。そこがぐしゃぐしゃなまま右往左往するのは、いてもたってもいられなさすぎだし、誰かがいまそこに「いて」ちゃんと「立ってる」かどうか、は本人が判断するしかない。どうせ、今のままでは、その人はそこに満足に「いて/たって」はいられないだろうから、「いてもたってもいられない」場所へ引っ張り込むのは、むしろその人のためになる親切なのだ、とか思うのは不遜です。

女は笑顔で殴りあう:マウンティング女子の実態 (単行本)

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つい最近まで「女子力」をもてはやしておいてハシゴを外すのは実に下品だと思うが、こういう本を天下の朝日新聞の書評欄がうれしそうに取り上げるくらいの「下品な空気」が今の世の中に充満していることは、今日のお天気・気圧配置(外回りするなら折りたたみ傘をバッグに入れといたほうが濡れなくていいかもね等々)として知っておいても損はなかろう。この空気は、たぶん可燃性が高い。人間は下品なのよ。