問いの立て方がおかしい、場合分けすべし

  • (a) 論文(書類)は学位に値し、その作成者が一意に特定される。
  • (b) 論文(書類)は学位に値するが、その作成者を一意に特定することができない。(代作・剽窃・書式の不備など)
  • (c) 論文(書類)は学位に値しないが、その作成者は一意に特定される。
  • (d) 論文(書類)は学位に値せず、その作成者も一意に特定することができない。

社会科学者が大好物な二次元・四象限の場合分けだヲ。

(c)と(d)は、その論文に学位を出した人物・団体・組織が疑念にさらされる可能性があり、その疑念は学術的なものとなるであろう。つまり、事案は主として教員・研究者の領分になると思われる。

ただし、異議申し立てがないかぎりは不問とする立場(立証責任は疑惑を持つ側にありとする立場)から、特別な事情等々を弁別して対処する立場を経て、過去にさかのぼってすべての疑惑を払拭するべく徹底的に調査する立場(立証責任は疑惑を持たれた側にありとする立場)まで、グラデーションがあり得る。そこに原理原則は立たない。当該人物・団体・組織と、それらに疑惑を向ける者の力関係による。いわば自由市場。

(b)と(d)は、その論文で学位を取得したと主張する人物が(も)疑念にさらされる可能性があり、その疑念は事務手続き上のものとなるであろう。つまり、事案は主として職員・ホワイトカラーの領分になると思われる。(日本の大学の現実では、この領分やその一部を教員・研究者がやってるケースがままあるらしい、と伝え聞くにしても。)

ただし、異議申し立てがないかぎりは不問とする立場(立証責任は疑惑を持つ側にありとする立場)から、特別な事情等々を弁別して対処する立場を経て、過去にさかのぼってすべての疑惑を払拭するべく徹底的に調査する立場(立証責任は疑惑を持たれた側にありとする立場)まで、グラデーションがあり得る。そこに原理原則は立たない。当該人物と、それらに疑惑を向ける者の力関係による。いわば自由市場。

これで、別に不透明なところはなかろうと思うがどうか。

で、「コピペ文化論」がこの件に介入できる余地があるとしたら、せいぜい、最初の場合分けにおいて、文書作成者を特定する作業がどのようにして可能か、「作成者が一意に特定される/されない」とはどのような状態を指すのか、という定義や技術論(への助言)に過ぎぬと思うが。

具体的には、「引用が適切に処理されないことが常態化している」は、(c)なのか(d)なのか、というあたりか。でもこれでは、事案として、理論的な問題に発展する余地は少ないような……。

オボちゃん問題とサムラゴーチ問題をまとめて論じる大統一理論を提案して、ゴーストライターや代行業者を一挙に問題化するとともに論壇の覇者になることを目論んでいるのかしら。(いっそこのテーマで新書を書くか。『代作の政治学』。)

このテーマを具体例満載で出版社にねじ込むことができるとしたら、おそらく、かなりの豪腕であろう。

あるいは、出典を示す、という作法を廃絶して、コピペし放題を求める「引用撤廃論者」がこの機会に自らの存在を誇示するべく活動を開始する、というのであれば、話は別だが、それはまたアナーキーなことになりそうで。

「一つの怪物が言説空間を徘徊している。万国のコピペよ立ち上がれ」 (『複製主義者宣言』)

なるほどそれは、無産主義者って感じだが。

学問は既存の議論を限界まで推し進めた先に突破口を見つけようとするものだとはいえ。(大栗博司先生は「急進的保守主義」という言葉をよく使う。)