適材の適所はこんな感じではないのかしら

関西のクラシック音楽は、過去10年くらい、それなりに面白い話題が色々あったと思うのですが、落ち着いて振り返ってみると、話題の中心はオーケストラとオペラだったような気がします。

大植英次が抜擢されて、佐渡裕がいて、オペラは彼のところと沼尻竜典が来たびわ湖があるだけじゃなく、大植も、ちょっと残念な結果にはなりましたが、来た当初はコンサート形式のオペラを毎年定期で取り上げたり、オペラにも意欲を見せてましたからね。

で、それはいいのだけれども、ひょっとすると、徐々に小さな演奏会、とりわけ、リサイタル方面が手薄になっていたかもしれない。

2011年ということは震災があった年には、「明らかに最近リサイタル減ったよな」としばしば話が出るようになりましたが、その兆候はその前からあったように思います。

とある(東京ではえらく前評判が高かった)ピアニストが来たのだけれど、客席が閑散としていて、「華やかなピアノ演奏会は関西からはなくなってしまうのかなあ、昔はポリーニやポゴレリッチが2日続けてシンフォニーホールでリサイタルを開いていたのに」と、かなり真剣に知り合いの記者さんと話したこともある。

無策だったわけではなく、いろいろな仕掛けを工夫して、ピアノ・リサイタルの火を消さないために知恵を絞っていた人たちはもちろんいますし、でも、リサイタルがいまいち盛り上がってない感じがあった理由は複合的で、対策があるのか、しばらくしたら心配しなくてもそのうち流れが変わるのか、もうこういうものと思わなければいけないのか、現在進行形では、そのあたりもよくわからなかったのが実情な気がします。

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で、そういうときだったから、岡田暁生が業績を増やしたくて必死だったのか何なのか知らんけど、「ピアノなんてもう終わり、19世紀のヴィルトゥオーソが最高で、そのあとは残りかすだ」みたいに背中から人を撃つようなこと言い出すのに世間が賞を与えたり、そこへちょろちょろくっついて居丈高なことを言うのが出てきたりするのは、お前ら何考えとんねん、と思ったわけですよ。

まあ、そういう論調が一定の注目を集めたということは、ピアノが盛り上がってない感じだったのは関西固有のことではない面もあったのでしょう。一世を風靡した人たちが死んじゃって、その次の人たちがそこまで輝いた感じではなかったり、そういう世代の人たちの方向性を面白く売り出すやり方がちゃんと見つかっていなかったり、というように、ここでもどうしてそうだったのか、原因は複合的だと思います。例えば、それでも頑張って「ポリーニ・プロジェクト」(大阪には来なかったけど)みたいのをやってはいたけれど、その頃は、ここ数年にわかに「巨匠」扱いされるようになったツィメルマンやルプーやシフを、そこまで誰もプッシュしてなかったじゃないですか。このあたりの70年代に出てきた人たちをどう売ったらいいのか、定まってなかったんだと思います。

(ドイツあたりの、いかにもプロフェッサー然とした地味な人を「本格派」扱いして売ろうとしたり、色々迷走してましたよね。)

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そして関西の状況に関して言うと、ひと頃のように、シンフォニーホールが少なくとも外来については、重要なリサイタルをほとんど押さえている、というのではなくなって、公共でも民間でも、新しいホールが出来たら、そこが目玉企画として有名人を取るようになって、でも、そのあとペースを維持できるとは限らないので、結果的に、公演が分散して、くっきりした像を結ばない感じになって、その状態で一度人が入らないとなると安全に規模を一回り小さくしようということにもなりますから、ますます、公演が散っていく。

それがまた巡り合わせの悪いことに、大植だ佐渡だ沼尻だ、児玉宏にデュメイだ、という風に、オーケストラやオペラが特定の人・場所とセットで話題を振りまいていた時期なので、影が薄くなったのかなあ、と思います。

で、さらに、例えばオケやオペラだったら、東京あたりからそれ目当てに聴きに来ようかという人がいて、そうすると「中央」(と謹んでご尊敬申し上げればいいんでしょ(笑))のメディアにも「露出」(が広報用語なんですよね(笑))するけど、ピアニスト(やヴァイオリニスト)目当てに関西へ人がくる、というのは、ほぼないですからね。

まして、例えば、「地方のコンサートも広く目を配ってます」という人でも、関西の演奏家にどういう人がいて、今この人はベートーヴェンに取り組んでいるんだよ、あの人はシューベルトにご執心で、最近あの先生のスクリャービン凄いんですよ、とか、そこまでは知らんでしょう。

あるいは、ピアノの話から外れますが、例えば上村昇のことは、もちろん知らなきゃモグリだけれども、じゃあ、上村さんが京都で還暦の節目だからということで10年ぶりにバッハの無伴奏全曲を弾いた、とか、東京で誰も知らないでしょ。

それやこれやが重なって、リサイタルが盛り上がらない状態が過去10年、とりわけ過去5年くらい続いたように思います。

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しかし、ひょっとすると、ちょっと流れが変わりつつあるのかな、という感じがする。

少なくとも、「音楽雑誌がやたらプッシュしていたり、東京で何やら評判になりつつあるような人は、関西ではうちに来てくれたら聴けますよ」という感じにプレゼンしているホールが出てきているじゃないですか。

ホールのキャラクターにも合っているわけだし、それは、とてもわかりやすい。誰にとっても歓迎できる結構なことだと思うんですよ。

(というか、そのホールの「火山大爆発」みたいな最近の攻めのあの手この手は、「売れ筋のリサイタルはうちがやります」と立候補する行為なのであって、そこが本命、主軸なんだろうと考えると、あの人たちがどこへ向かおうとしているのか、わかりやすい。当事者としての事情・思惑は色々あるのかもしれないけれど、大局的には、そういう流れのなかに収まるだろうと思うんです。各オーケストラに一斉の「人事異動」があって、でかいホールがリニューアルオープンしたりするタイミングなので、そことの対比で、うちはこれだ、というカラーもはっきりする。)

外来の華やかなやつはあそこでやるもの、という軸がはっきり見えたら、それを前提に他が色々考えたりもできて、さらに物事が活性化する、かもしれない。

そのあたりが落としどころだと思うんですけどね。当面は。

(で、そういう関西のリサイタル、とりわけピアノの話だったらオレのところへ聞きにこい、全部任せろ、みたいな売り出し方をすればいいのに、という人がいたりもするわけじゃないですか。そのつもりで普段から準備しておけばいいのに、と思うんだけどなあ。そうなれば、名実ともに「プロ」じゃないすか。

ただし、最近の器楽ソリストの演奏スタイルというか活動のスタイルを見ていると、アスリートめいた「プロフェッショナル」とは距離を置きたい意向みたいのが大家にも若手にもありそうだから、そこをどういう風につかまえるか、味付けに工夫は要りそうですけどね。

たとえば、変に気むずかしくプロフェッショナル然として予防線を張り、「これはいい、それにひきかえ、あれはクソ」みたいに言うのではなく、良い意味でのディレッタンティズムが肝要なんだ、みたいな打ち出し方をすれば、諸々うまくいきそうな気がするんですけど。敬愛するだれそれさんの生き方とかだって、その線であれば納得できるし、自分がそういうところからスタートしてるんだ、と言えば、説得力も出てくるのに。

……で、しかしながら周りからはそういう風に見えていても当人は変人で、すぐプイと横を向くから、そこは、ペットを躾けるみたいに、上手にキャラを活かして使ったってくださいよ。そーゆーことのプロなんでしょう、皆さんは(笑)。「商品(タレント?)」が人前で恥をかかないように、こっそり上手に操縦してくださいよ。案外操縦されるのが好きそうなタイプだということは、なんとか力で、とっくに見抜いているんでしょ。)

ベートーヴェン ピアノ・ソナタ全作品解説 (叢書ビブリオムジカ)

ベートーヴェン ピアノ・ソナタ全作品解説 (叢書ビブリオムジカ)

この本も、関西でコツコツ続いたリサイタルの成果物。

大阪は、地元出身のコテコテの人間ばかりじゃないし、大阪城に通天閣、梅田も天王寺も高いビルがニョキニョキ生えてはいるけれど、ど派手なことばっかりではないよ。