個性の希薄さの先がどうなっているのか

プロがシロウトにも、あるいは演奏会を聴かなかった、聴けなかった人にもわかるようにバランス良く書くお手本のような文章、というのがあるとしたら、こういうのを言うんじゃないのかなあ。

http://plaza.rakuten.co.jp/casahiroko/diary/201403220000/

このポイントでどうしてこういう言葉、言い方を選んでいるのか、その背景にどういう見識や判断があるのか、ということも伝わってきて、読者の側のどのあたりが欠けていたり、歪んでいるのか、ということに気づかされるベンチマーク感がある。

で、その歪みを考え直すところから話が次へ転がっていくのだと思われ、

たとえば、彼が「化ける」ことができたのだとしたら、それは、ひょっとすると、最初っから個性(我)が希薄だったからではないかと思ったりする。

若い頃の演奏は聡明で周到でバランスが良かった印象があり(メンデルスゾーンとかをちょっと聴いた程度だけれど)、でも、「で?」と思うところがあり、それが、いつしか、レパートリーが鍵盤音楽全般を旅する感じにどんどん縦と横へ広がったんですよね。

だから、そういうことを知らない者や、自分が知らなかったトピックについては「教えてもらった」感があるけれど、でも、ああ、そういうの、あるよね、と先回りできてしまうトピックの場合は、やっぱり、「で?」となる懸念が常につきまとう。そう思わせないだけの不断の努力と旺盛な好奇心(なのか脚力なのか)がある人なんでしょうね。

「長いアンコール」は、そうやってどこまでいっても個性(我)が希薄であることの補完なのではないか、ここで行き止まりなんじゃなくて、この先には、こっちにも、あっちにも、ずっとずっと地面が広がっているんだよ、to be continue なんだよ、ということではないかと推察するのですが、どうなんでしょう。つまりは、終わりを見つけることのできないところがある人なのではないかと。

実際に聴いたときに、話がその水準に終止するのか、それとも、ここまで広大なフィールドを背景にしょっているとなると、これはもう、何か違ったものと言わざるをえない、なんなんだこの取り組みは、という感じになるのか。

そのあたりを誰かが上手につかまえて、言葉にできたら、そのときにたぶん、「啓蒙」が「批評」に変わるんだろうなあ、と当たりを付けてはおりますが。

まあ、誰に頼まれたわけでもなく、好き好んでそんなことを追いかける義務を背負った人がいるわけでもなし、人は誰しも、やりたいこと、やらねばならないことはたくさんあるわけだから、そこまでこのピアニストにつきあういわれはない、というような希薄な時空で、人は音楽を語るわけだが。