平和・平等ではないけれど、勇ましい最終決戦というわけでもなく長く続けられそうな相対主義(案)

問い:「何だかよくわからないものは下手にイジらないで、そっとしておこう」は相対主義なのか?

[追記あり、話の流れも少し軌道修正した。]

その1:こちらのお家事情

語義から考えると、「何だかわからない」のみならず、「イジるのはやめとこう」=関係 relate しないでおこう、までいっちゃうと、私とソレは相関 relative じゃない。それのどこが相対主義 relativism やねん、となる。

どうやら今、主として人文科学方面では、

相対主義=「自文化の価値観を他文化にそのままあてはめてはならない」

というように、平和や平等のニュアンスが「寝た子を起こすな」論とほどよく調和して、日本人論で言う「日本人らしさ」がほのかに感じられる、まったりとした(笑)言い回しに相対主義をマニュアル化・格言化すればいいことになっているらしいのだが(日本語の人文科学の学位論文をパラパラめくったら、この格言を「相対主義」と呼んでいるのを簡単に見つけることができるはずです)、

この格言がどこから出てきたかというと、自他の区別、ソレが自分の側からどのように見えるか、ということが、対象(ソレ)との関係で相対的・相関的にしか決まらない[←やや重言めいた言い方だが]、という考え方ですよね。だから、こっちの基準で相手を測る、という風に決め打ちはできませんよ、と言ってるわけだ。

身長170cmは、120cmの子供から見たら「大きい」が、190cmのスポーツ選手から見たら「小さい」。

「イジらずにそっとしとこう」どころではなく、自分がそこへ組み込まれているソレとの関係を見よう、という話ですがな。ものの「大きさ」は、観察者自身の大きさと対象の大きさの関係で決まる、みたいな、いわば人間関係の物理学。

相対主義は、「よくわからないもの」から逃げたい臆病な心をそのままにして、すべてをあるがままにうけとめるのがよろしい、ではないんだよね。そんなことしてると、キミ自身が何者か、ということもまた、「相関的」に、いつまでたってもわからないままだよ。力が働かない静止と等速直線運動は、ゼロだよ、と。

そういう意味で、相対主義は平和で平等な楽園というより、果てしなく続くゲームに近い世界認識だと思うのだが、そのあたりの覚悟があるのかどうか。

その2:世の中の情勢

世界の読者に伝えるということ (講談社現代新書)

世界の読者に伝えるということ (講談社現代新書)

日本文学の「輸出」(翻訳)が二葉亭や漱石・鴎外の1910年頃から実は既にはじまっていた、とか、日本を世界との「相関」で捉える視点はすごく面白いのだけれど、そんなこの本の中にすら、

相対主義=「自文化の価値観を他文化にそのままあてはめてはならない」

という格言が出てくる。そしてこの格言がどのあたりに「効いている」かというと、「比較文学で日本を論じる米国学者」という存在(著者の先生)が、相対化の吟味から外れているところだと思う。「師匠と弟子」の関係を「米国というオトナと12歳の日本」という関係になぞらえて、先方が敷いたレールを上手に走りましょう、となってしまうと、タコツボ脱出には成功するけど、一回り大きいところで閉じてしまうのでは……。

まだ、前半しか読んでいない段階で、後半に違う展開があるのかもしれないけれど。

[追記]

とハラハラしながら最後まで読んだら、「先生たち」のことをよく観察しながら動くなかで「動ポモ」英訳が出るに至る現場の感じが見えてきた。

英語市場に日本を登録するときに、比較文学と地域研究という2つのルートがあって(というか、ぶっちゃけその2つしかないよ、今も昔も、という風にも言える、東大に比較文学比較文化があって阪大に日本学があって、みたいのと対応している感じですね、「世界進出」とか「ディアスポラ」とかゆうたって、『地球の歩き方』片手に360度全方位好きなところを好きなだけ歩き回れるわけやあらへんで、ということだ)、でも、比較文学が「精読ではない遠読」を提唱したり、地域研究では「別に私たちは、日本人になりたいわけじゃない」という立場がくっきりしてきたり、という変化もあって、ちゃんといろいろなことが相関しているようですね。

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続けてこのあたりを読みたくなる。

その3:で、どうする

ただし、そこまで踏まえて、この2つのルートから英語圏に出す/出る、の既定ルートだけでは、なんか退屈だし、いつまでも続けていると疲れてしまいそうだなあ、という感じは残る。上の本にも出てくるが、よほどしっかりした後方支援がないと、続かないかもしれない。どっちにしても出口はそんなに大きく広がっていないのだから、飽きたり疲れたりしないペースで地道に続けるべき取り組みなんでしょうね。

5カ年計画で世界主要都市に店を出すぞ、目標3,000店!みたいなグローバル社長の勇ましい事業プランではなく、以前からある2つの海外サテライトショップは今もそれなりに順調なので、ここをコツコツ続けていけば、そこそこニッポンのプレゼンスを確保できるんじゃないかなあ、という感じか。

そんな風に、緩く気長に「相関」するのは、悪い話ではないかもしれない。持たざる残念な国は、それくらいがちょうどいいかも。

この程度なら、悪い話ではないんじゃない。