続・多様性:並列とシャッフル

下で音楽の多様性のことを書いたときに、ロンドーとかメドレー、パラフレーズのような並列的な音楽のことを書かなかったのは、わたくし自身はそういう音楽こそが好きなのだけれど、「好き」だけで入れてはいけないかと思って遠慮した。

小岩信二が「ポスト・ベートーヴェン時代」と書いた1920年代のコンチェルトがそうだったように、ヨーロッパの音楽史では、なぜかこの種の音楽が長続きしなかったり、脇へ追いやられている。どうしてなんでしょうね。それこそが音楽における複数性の肯定だとは思うのだけれど……。

無調の哲学者などまっぴらだが(坂本龍一のスコラは電子音楽を4回、日本音楽を5回(!)やったのに、ゲンダイオンガクは3回でプツリとスイッチを切るように終わった(笑))、並列と多様性の音楽学だったら、楽しそうかなあ、とは思う。

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高校で成績トップの子が職人になる、とか、農業高校にヘンリー・ジェイムズで博士号をもつ英語教師がいる、とか、ヴェネツィアのビエンナーレの常連の美術教師がなぜだか知らないけれど商船大学にいる、とか、そういうほうが「多様」ではあるだろうか。

でも、そういう状態を人工的に作りだそうとすると、毛沢東の下放政策みたいになって、文化大革命の壮大な副作用を生むかもしれない、とみんな考えるだろうから、無理だよね。

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わたくしが、かように、並列とか多様性を夢見てしまうのは、「1970年代初頭というか昭和40年代はそんなに悪い時代ではなかったのではないか」というように、記憶をゆがめて理想化している懸念はありそうだ。

この時代って、田中角栄で、自民党族議員がそれなりに活躍していた時代でもあるからなあ……。ねえ、吉田さん。