多様性:偏差値と相対性は向きが逆

そういえば、わたくしは人間社会は人間社会、音楽は音楽と分けて考えて、人間社会が音楽のようであればいいのに、とか、音楽が人間社会のようになればいいのに、と思ったことはないかもしれない。無調音楽が哲学の鏡 by アドルノ、とか、何言うとんねん、アホちゃうか、と思う。別の領域・スケールの話が、ときには関係したり、しなかったりするだけちゃうのん。

と、それはいいのですが、

十分な多様性のないところに相対主義とか言い出すと、大した違いがないところに無理矢理、差異を見つけようとして内側を食いつぶして疲弊するのは確かかもしれない。

で、多様性って何だ、ということは、音楽の勉強として、それなりに長い間考え続けているかもしれない。

1. 対位法 - 動き続けること

よくできた多声音楽は「あたかも各声部が自由に独立して動いているかのようだ」と言われて、そんな理想の多声音楽を作るコツをまとめたのが対位法だ、ということになっている(のだと思う)。

でも、これは結局、例えば写真を撮るときに他人とカブらないような立ち位置をどう見つけるか、とか、フットボールでパスがうまくつながるには、どういう陣形で、それぞれがどういう風に動けばいいか、みたいなもので、成功すると「やったぞ」感(これも一種のボ(beauty)か?)があるのだろうけれど、あくまで「動き方」の問題だと思う。

何が動くかというと、Kontra"punkt"/counter"point" というわけで「点」が想定されていて、オセロでマス目に同じ白黒の石・コマをたくさん並べるのに近い。

既存の定旋律の周囲に対位を配置するのは、いってみれば、ガリバーに蟻のようなこびとたちが群がっているようなものだし、いくつかの「点」の組み合わせを固定して使い続ける手法(=主題の設定)をさらに追いかけていくと、対位法とは別の話になる。

2. 変奏・発展 - 一が多であり、多が一であること

「主題」が最も活躍するのは、多声音楽全盛を過ぎた近代クラシック音楽の時代になってからで、この時代の音楽における主題の活躍ぶりは、もううんざりするほど語られているから、いいですよね(笑)。

主題の変奏とか発展とか呼ばれる技法は、幹細胞のようなものから枝分かれしていると見ればいいのか、まだ何者でもないボクが様々な状況・冒険の末に変化・成長しているのか、あるいは、同じ人物がいろいろな衣装を着替えるファッションショウやコスプレなのか、何らかの属性を引き継ぎながら転生・トランスフォームしているのか、それとも、多声音楽で「点」の並べ方を固定するような一種のゲーム、とりあえずの目印みたいなものに過ぎないのか……。

現れ・実装は様々だけれども、「同じであること/もの」があることで差異や変化が成立する仕掛けになっている(ように見える)。

そして、「同じもの」を設定した差異や変化の総体を「高次の統一」とか言い出すと、たいてい話がダサく、ツマラナイものになる。今更その話はもういいよ、という感じがする。論理クラスのクールな仕分けをしたところで、それだけではなあ、とも思う。

(ただし、「もういいよ」と思ってしまうのは、いまだ世間に変化・冒険・成長・変身への願望・需要が渦巻いているからなのかもしれない。そうじゃないと、「不屈の天才」という芸を18年間やり続けることができたり、「夢の細胞」をめぐるポエムが晴れやか(←晴子にかけたシャレじゃないよ)な広報戦略として成功を収めることはないだろうから、近代の厚みはバカにならない。

ひょっとすると、ヒトはどこかの段階でコドモからオトナへの「階段を上がる」のだ、という物語が有効であるかぎりは、「青春=階段の上がり方」が課題となり続けるわけだから、変化・冒険・成長・変身への願望・需要はなくならないかもしれないね。たかだか、ヒトという個体の生育を円滑ならしめるだけのためにホーリズムめいた物語を維持するのは、大げさすぎるのではないか、という気もするのですが……、でもこれが「人文科学」の飯の種ではあるようだ。)

3. 異物と偶然 - システムは失調させるためにある

「多にして一、一にして多」などというのは、現実というより、そうだといいね、「キミもそれを信じて頑張りなさい」の、おせっかいだが良かれと思ってなされる励ましみたいなものだと思うのだけれど、そんなことばっかり言われ続けていると、反発する者がどうしても出る。

変化・冒険・成長・変身に回収できない異物を音楽にまぎれこませる愉快犯が登場したり(マーラーにおけるクレズマー音楽とか自然音とか啓示的ファンファーレはそういうものだと言われたりする)、どうしてこうするのかと言われたって、理由なんかないよ、とソッポ向く醒めた人々が都会のオシャレ・アイテムになる(20世紀の半ば頃まではドビュッシーがその代表だったが、ケージが出てからサティとその「恐るべき子どもたち」に王座を奪われたかも)。

構造上、これはどうしたって、「近代」があってこそですよねえ。「同じもの」を設定しないと変化が語れないのに似て、システムを設定しないと、その失調は事件にならない 。

その先にシステムから自由な「新しい人類」が誕生するのだ、と言うと1960年代っぽいわけで、ひょっとすると、こっちのほうが、ヒトはどこかの段階でコドモからオトナへの「階段を上がる」のだ、という物語よりはマシかもしらんが、異物と偶然を大量投下すると、多様性どころか、集団が離散・拡散してしまいそうですもんね。

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1. でメンバーの動きの「凝り」をほぐしつつ、多様性は、集団が「一」へ固まらず、かといって、離散・拡散してしまわないように、2.と3.の間のどこかへ程々に調整しながらやっていくしかないんでしょうなあ。

で、こういう風に考えていくと、相対主義っちゅうやつは、このような集団の「内側」に対して適用するというよりは、それぞれに悩みを抱えた集団相互の関わり方、「外向き」の話だったはずだよなあ、ということに思い至る。

外部はない、とか、世界は閉じた、とか、閉塞、とか、わたしらは、そんなことばっかり言い過ぎていたかもしれない。

そうだよ、相対主義・相対性は、入試・シューカツ・自己評価のたぐい、キミたちの「偏差値」の話じゃないのだよ(笑)。