相対性の好例

むしろ、絶対数そのものは少子化の影響で減っているのではないかという気にすらなります。それにもかかわらず、「マイルドヤンキー」なる言葉がこのタイミングで注目を集め始めたこと自体が、何かを意味していると感じたのです。

もう少し説明してみましょう。論客とされるような人々が今更「マイルドヤンキー」に注目する理由は、実は彼女・彼らが物心ついたときから、そのような人々が周りにいなかったからなのだと思われます。

「マイルドヤンキー」という言葉があぶり出した日本の階層 (3ページ目):日経ビジネスオンライン

ちょっと前まで、

「自文化の価値観を他文化にそのままあてはめてはならない」

というお行儀のいい格言が相対主義であると言い含められ、動きすぎてはいけない(動きすぎはイケてない)、などとされていたのは、格差(のように見えるもの)をもうちょっとはっきりするまで育てて、一気に問題化して換金しよう、今はまだ早い、と考える論壇ギャンブラーの勝負勘だったのかもしれないね(笑)。

セコい「格差」もあったものだ。

参考:http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20140317/p1

(他方で、自分たちがひとしきり稼いだあとで、年下の世代が先輩をマネして一勝負しようと策を練り、ようやく「鉱脈」をみつけたところで先輩たち(既に就職してサラリーマン、しかもハケンじゃなく正規)にあっさりツブされる、というのは、ちょっと可哀想な図ではあるけれど……。先輩後輩関係は過酷なり。あ、これが縦社会なマイルドヤンキー、昔からあると名高い後輩イビリか! 団塊ジュニア=ロスジェネ世代は、数も多いし、壁は厚いぜ。)

泉州のことはよくわからないのですが、昨年来、八尾に少しずつなじみができて、高低差なしに生駒までずーっと平地が続く河内(近鉄文化圏?)は、北摂の丘とは色々違っていそうだなあ、と思う日々です。

(本家八尾の河内音頭は、小学校を拠点に市街地を練り歩く形式をやめて、数年前から久宝寺公園でやることになったのだそうで、往年のそれを体感できずに終わってしまったのはとても残念なのですが。)