はじまりは男じゃないの:「ゴールドベルク事件」の記憶を風化させてはいけない

端的に書けば、ゴールドベルクを最初に「録音」したのはランドフスカです。ゴールドベルク受容をちゃんと論じるのであれば、この「事件」をちゃんと語らなければなりません。そしてゴールドベルクが「ヒット」したのは第二次世界大戦中にナチスの迫害で北米に到着した同じポーランド系ユダヤ人女流チェンバロ奏者のセンセーショナルに報じられたライヴ演奏&二度目の録音によってであり、 1950年代のカナダ人のラッキーボーイの登場は、すでに稼働して何年にもなる複製技術時代の音楽物語の「続き」、第二幕でしかない。エルヴィス・プレスリーやジェームズ・ディーンがゼロからスタートしたわけじゃないのと同じことです。現在の状況は、さらにそのあと、続きの続きの……に過ぎません。(だから私はシフにあんまり興味がない。今更なに?と思うから。もし彼が「化けた」のだとしたら、こうした普通のバッハ受容とは違う「20世紀ゴールドベルク物語」の何かを彼がつかんだのかもしれないけれど。)

つまり、ランドフスカは本当にダメだったのか、モダン・チェンバロは本当に酷い楽器だったのか、というところから考え直す必要があります。そしてこの話をぐちゃぐちゃにしてしまわないためには、古楽史を実証的に語り直すことになります。好き嫌い抜きに、誰かが本気でランドフスカを論じないかぎり、ゴールドベルク問題の解明はないです。

オトコが威張った文体で論じる話じゃないと思うわけよ。

(……というところまでは、最近調べてわかった。その先は、具体的な「作業」なので、誰か我と思わん人がやればよろしい。ランドフスカは、ラフマニノフ以上に、名が知られているのにその業績というか歴史的な位置をちゃんと論じ、研究されることのない音楽家です。なぜ論じられないか、その理由や、そこを論じるための筋道、このあたりを掘り進むことになるのだろうという腹案は色々ある。なかなか大変ですが、やる意味は十二分にあると思う。

ただし、何らかの形で女性研究者が入る、もしくはジェンダー論の準備がないと、ランドフスカ研究が現状から先に進むのは難しいかもしれない。そんな状況を踏まえた上で、誰かがチャレンジするべき、と思います。

私自身ができることとしては、「吉田秀和とランドフスカ」というテーマは悪くないんじゃないかと思っているんですけどね。吉田秀和がランドフスカに冷たく、グールドを「えこひいき」したことの歴史的・批評的意義を問い直す作業です。でも、ここに書いたということは、まとめられないかもしれないので、やる気のある人がいたら、どうぞよろしくお願いします、という意味です。いいテーマだと思うんですけど。吉田秀和はフェミニンだと言われるけれど、ほんまかいな、と一度は問うてもいいでしょ。)