背理法的

[追記あり]

おお!もうひとつの可能性を示して、なおかつそれが不可能だと論証するのが背理法。おそらく数学が「ウソ」とつきあうための最強の方法。「ウソ」を単に排除するのではなくて、その可能性をとことんまで推し進めることで限界を見極める感じが、シビれます。

一方、可能性を次々示して全部肯定しちゃうのが並列的な音楽。ハッピーだけど、こりゃきっと「ホラ吹き野郎」だな(笑)。だから組曲はロンドーで終わるのか!夢落ちのハッピーエンドと同じだ。なるほど。

やっぱりこの種の「虚」の並列・多様性は、虚数の数直線が実数のそれと直交するように、最初に書いた話と直交しそうですね。

[追記]

なお、念のために申し添えますと、世の中には、「いくつかの可能性があって、いずれかひとつが最も正しい、最も善い、最も適切、と決められない」となることがある。というより、そうであることの方が多い。私の考えでは、この悶々とした「決められない三すくみ」のそれぞれの可能性をとことんまで推し進めて衝突させるのがドラマなのだと思います。どうにもならないことがあるのを忘れないために……。

こちらは、しばしば「死」で終わる悲劇になる。(しかも、死んだほうが主人公で、生き残ったほうが敵役なのだけれども、必ずしも死んだ主人公が悪であったり、悪者が正義に倒される勧善懲悪ではないところが、ドラマのドラマたる所以。)

そしてこの種の悲劇は、「ほら吹き野郎」の大活躍のありえないハッピーエンドとしばしば対になる。

音楽にも、この種の、正解を決められない悲劇と、アホらしい喜劇がありますよね。

[追記2]

ロンドーが「ほら吹き野郎」のハッピーエンドっぽいな、と私が思うことのひとつは、エピソードの登場においては、論理の飛躍・意外性・不意打ち・きまぐれなどの「掟破り」を含む方が効果的、というより、何らかの「掟破り」が積極的に推奨される構造になっていること。

そしてもうひとつは、そのような「ほら吹き」っぽいエピソードの多くが「竜頭蛇尾」で、登場の瞬間にめざましい効果を発揮するのだけれど、だんだんと雲行きがあやしくなって、うやむやのうちに主題へ戻る=ふりだしに戻る作りになっていること。

ハラハラ・ワクワクしながら繰り広げられたエピソードがいつの間にか長く引き延ばされた主調のドミナントになるところは、散々良い思いをした「ほら吹き」がお縄をちょうだいして引っ張られていく感じで、憎めない奴だからちょっと残念、と思いながらも、やっぱりそういうことだよな、と気分が平常モードに戻っていくロンドーならではの場所だと思うわけです。

(「ティル・オイレンシュピーゲル」の最後に、昔々……という冒頭のシーンがそっくりそのまま戻ってくるのは、いかにもそんな感じだし、こんな風にふと我に返ると何事もなかったように最初と同じシーンが最後に戻ってくるのは、「夢オチ」の定番の演出でもあるわけですよね。

「ヤラレタ!」と思いつつ「こちらも楽しい思いをさせてもらったのだから、ま、いっか」と思ってもらえるさじ加減で撤退するから、ほら吹きが成立するのだと思います。おそらくそこには、悪の肯定とも、あらゆる不正を許さないリゴリズムとも違う心の動きがある。音楽・芸能はこのキワキワを綱渡りするわけですね。)

[「ティル」は、平穏が戻ったコーダで、さらにもう一回ひっくり返して悪戯小僧が高笑いして終わりますが。]