「プロである彼」

この人は、ときどきこういう粗雑な言葉遣いを自慢げにやるよなあ、何なんだろう、と思うわけだが、少し考えて、たぶんこうだろうと得心した。

わざわざ「プロ」という文字を入れたのは、言外に、「私は一流の人間しか相手にしない」という自意識があるのだろう。

そしてこれは、ひょっとしたら、小澤征爾がしばしば若手相手にアドヴァイスするように、「一流の人間になりたかったら、常に一流・最高の相手と仕事をしなさい」という格言を信奉している(つもりな)のかもしれない。

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が、その当人が自他共に認める「一流」ではなく、形だけをまねた場合には、高級を謳う飲食店が入り口に黒服を置いて、客の服装を見て中に入れる/入れないを選別する、というひと頃流行ったアホな風俗に似てくるので、なかなかリスキーな覚悟ではある。

そして、この人の場合、ちょっとあぶなっかしいのではないか、とこの文言を読んだ者の脳裏に疑惑が浮かぶ。

「プロである彼」という文言は、彼が何のプロなのか(より正確に言えば、彼が何のプロだとこの発話者が思っているのか)、そこのところが空白のままになっているからだ。

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ひょっとすると、当人の言外の言い分はこうなのかもしれない。

「何のプロなのか、私にはよくわからないけれど、とにかくこの人はプロだ。私には、相手がプロかプロじゃないか、一流かそうでないか、ということを瞬時に見抜く直感が備わっている。なぜなら、私もプロであり、一流なのだから。プロの人間同士、一流の人間同士の間は、合った瞬間に「ピンと来る」ものなのだ」

ここまでくると、自意識過剰が昂じた思い込みと言うべきであろう。

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種明かしをすると、ここで「彼」と名指されている人物は、プロのジャーナリストだ。

地道で綿密な取材力と、そこで培った人脈があって、裏取りのための資料調べもゆきとどいているし、こうしたインプットを記事にまとめるところまで一手に引き受けてやってしまえる正真正銘のプロのジャーナリスト。

そしてそれは、「耳だけ」で勝負するのとは違う世界のプロだ、ということでもある。

だから、武士のなさけでそこまでは引用しないが、「プロである彼」云々という文言は、彼が何のプロなのか、明言せずに言葉を濁すだけでなく、どうやら、彼が何のプロなのか、間違った風に理解している気配すらある。

この御仁の「人を見る目」には、まだ未熟で修行の足らんところがあるようだ。

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強いてこの状態を簡潔な単語で言い表すとしたら、「ミーハー」の語がふさわしいのではないかと私は思う。

「ミーハー」という、ちょっと懐かしいところのある言葉で形容するのがふさわしいタイプの心のありようを失っていない人物をこのポジションに配置する、というのは、今の日本でしばしば見かけることでもあり、納得しやすいことであろう。功罪相半ば、だとは思うが。

(ところであなたは、自分自身を何者である、と考えているのでしょうか。そして、あなたは、私が何者であると考えているのですか?)