終わり方・収め方

http://d.hatena.ne.jp/tsiraisi/20140526/p3

↑の補足。

行事が無事終了しました。結果は○○でした、次は△△です、等々、という報告は、分身の術と似て非なるまっとうな作業だと思うのだけれど、興行は、やりっぱなしで放置されてうやむやになることもある。

冠婚葬祭でもそうだけど、終わってからの礼状書き云々は大事だし、そこからしばしば、新たな何かがはじまったりするよね。あそこの家はそういうところまでちゃんとしている、さすがだ、一方、誰々さんは派手にやってるけれど、後始末については……、と、ある種の評判が立つ指標のひとつにもなり得る。

(ちなみに、うちの母親は昔の人なので、そういうところは非常にうるさい。)

で、面倒だなあと若い頃は思うわけで、ちゃんと完了して、いい着地点を見つけるためには、物事の出発段階からそのつもりで準備しておかないといけなくなるわけだが、それはそうするだけの意味もあって、ちゃんとした準備をしてきれいに物事を収めると、その行事は放物線を描くように美しい段取りで進んで気持ちが良い。

そういう理想像をもつのは、悪いことではない気がする。鳴った音をきれいに収めないと、いい演奏にならないようなもので……。

際限なくクレッシェンドし続ける音楽って、もし、そういうものがあったら、やかましくてたまらんよね。それは、比較的わかりやすい下品さの典型かもしれない。