「シ−、シー、シー、拍手は指揮者が手を下ろすまで我慢しなさい」と他人に強制して大人ぶるのは、どこかしら幼児退行めいている

上の記事のすぐあとで逆の意見を書くようだが、「拍手は指揮者が手を下ろしてからにしましょう」問題については、これこそ音楽の終わり方・収め方をめぐる議論だけれども、いつも書くように、私はなるようにしかならないし、たいしたことではないと思っている。

東京のオペラにいくと、アリアのあとなどで拍手しようとする人に対して、公然と「シー、シー」と制止する人がいるのに遭遇する。そしてどうやら、「シー、シー」と制止する側のほうがサイレント・マジョリティ(高いお金を払って来ている会場内のお客さんたちのなかでの)の支持を得ているらしいことに、なんだか怖い感じを抱く。

オペラ観劇は保守のなかの保守、選ばれた人の集会になりつつあるのか、と不安になるのだけれど、そういうことなのかしら。

ものごとを美しくまとめたい、終わらせたい、と思うのは、事実としてそうでないものが断罪されるような「法・掟」ではなく、そのように願うことがそこへ向けて生きる生き方を律するような、いまだ死んでいない者のしがないモラル・エートスであって、それ以上でも以下でもないと思うのですよ。

どんなにそれを願っても、終わり(死)を生者がコントロールすることはできないし、できないかもしれないことを、ダメならダメでまあしゃあないか、と思いつつ、それでもやる。そんな構えで生きることってあるじゃないですか。で、本当にそうなったら、そういうのをラッキー・幸運と呼んで感謝すればいいけれど、ラッキー・幸運をやる前から約束された存在など、この世の中にはいない。

そして、だからこそ、終わり方収め方、往生の際は人生の大事な瞬間になる。

「シー。シー」っていうのを聞くと、いい歳した大人たちが何やってんだろうねえ、と、正直、ちょっと恥ずかしい。

逆にそれは、劇場という空間が、人を退行させる母胎のような働きをしてしまっている兆候のような気がする。

作品の哲学

作品の哲学

終章では、作品の完結性と、(作者の)人生の非完結性をめぐって、三島由紀夫の死が作品と人生の取り違えとして批判される。私は学生時代に佐々木健一先生のこの議論を読んで納得して、以来、意見を変える必要を感じていない。