どんぶり勘定

興行の世界では、少し前まで相当などんぶり勘定がまかりとおっていたことが知られている。総額いくらで仕事を請け負って、どこにいくらお金を回すか、細目は親分のさじ加減、実態と合って無くても、結果がうまくいけばそんなことは問題にならない、という感じになっていたようだ。(かつて、その末期みたいな光景は、とある場所で垣間見たことがないわけではない。)

今はどこもサラリーマン化して、担当者がどんどん入れ替わるので、仲間同士のツーカー、なあなあ、でだいたいこんなもの、とはいかないから、急速にそういうやり方ができなくなっているようにお見受けするが、

もとより、公演の結果に対する名声もまた、そんな風な「どんぶり勘定」で関係者に親分のさじ加減で配分すればいい、というものではない。

100の結果が出たから、歌手に40、オーケストラに20、演出に20。もちろん指揮者にも20は賞賛をあげとかないとあとで揉めるよなあ……。みたいな評価は、前時代の遺物と言うべきであろう。

戦国大名が家臣にぶんどった領地を分け与えるわけじゃないのだから。

最近何やらスキャンダルで不信の目を向けられている研究者の業界ですら、自己評価とか第三者評価とか、(やりすぎとの説はあるが)もうどんぶり勘定はできなくなっているようです。文化行政だって同じでしょう。そういうメカニズムのなかで、こうした「どんぶり勘定」な評価結果が利用・悪用された日には、システムが腐るのは目に見えているよねえ。

誠実・厳密に成果を評定され、10の賞賛を得た音楽家と、どんぶり勘定で20の賞賛を得た音楽家がいて、後者のほうが色々な局面で有利になる、みたいなアホなことが起きたとき、「どんぶり勘定」大王は、いったいどうするつもりなのだろう。

なんとか細胞の事件だって、「話がうますぎないか」という直感からスタートして、公開されたデータをしかるべき分析しなおしたら、ほぼ概要がつかめちゃったわけで、「どんぶり」の中身は食っちゃえばあとは知らぬ存ぜぬ、という風にはいかないと思うよ。

(どうしてそっちの指揮者がやったほうが、あっちの指揮者がやったときより公演の印象がわかりやすくなったのか、それぞれの指揮者のキャラクターを知っていたら、おおよそ、こういうことだったのだろう、という想像はつくよね。でも、そういうわかりやすさの先に、それじゃあどういう指揮者類型が待ち受けているかというと、あの人とかこの人とかということになるわけで……、うーん、そういう人生を彼は送るつもりなのか?と、やや考え込んでしまわざるを得ないけどなあ。公演の出来不出来とは別の問題として、だけど。

「どんぶり勘定」大王はおそらくその頃には死んでいるだろうから、あとのことは知らん、と思ってるのかもしれないが、この調子で20年、30年焼け太りさせ続けたら、この人はいったいどうなってしまうんやろう、とか、少しは考えてくれよ、と思うで。名声のメタボ症候群?)