所作・外見と差別

指揮者の「踊り」が音楽に合っている、合っていない、という議論は、ピアニストの顔つきや身体動作がああだこうだ、というのもそうだが、一般論としてではなく、各論として、この人がここでこうやるのは納得できない、なぜならば、という風な論の展開にすべきであろう。

一般論としてそんなことを言うのは、「肌の黄色い人間が西洋音楽をやるのは見るに堪えない」とか、「チビは指揮台に立つな」とか、という罵声と議論の組み立てが同型であることを自覚すべきだ。

要するに、外見でヒトを差別している議論ですよ。

「名門フィラデルフィア管弦楽団」の演奏会をテレビ中継すると、弦楽器のあっちにもこっちにもアジア系の顔が写る(NHKは、やや意図的にそういう顔を狙っていたような気がして、それはそれで、ちょっと気になったけれど)という状況について、一定の見識を持たずに21世紀のクラシック音楽とつきあうのは無理でしょう。

「かつてはこういうことはなかったのに」という戸惑いや驚きを抱くことは当然あると思うけれど、それに対してどのような枠組みで意見を申し述べるか、見慣れないものはすべてダメ、と言いたげな人におもねって論を単純化するのは、保守として幼稚だと思う。

「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?──人種・ジェンダー・文化資本

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