庶民ぶりっこ

「私は凡人だが」という感じに書き始めているのに、文中に音楽の専門用語を連発してしまったり、何が傑作や天才で、何が凡庸なのか、という確固たる鑑識眼(と書き手が信じる基準)でバッサバッサと対象をなぎ倒す。

そういう感じの批評の書き方というのがあるようだ。

こういうのは、小説で言えば、人物の設定が甘いのに似ているかもしれない。

現代日本の大卒のサラリーマンの設定なのに自宅の本棚にはラテン語文献が並んでいる、とか、書画骨董を玄人はだしに鑑定できて、週末に李朝のなんとかを買い求める、とか、説明抜きにいきなりそんな風になっていたら、明らかにおかしいっすよ。

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たとえば吉田秀和が昭和30年代40年代に書いた文章を今読むと、このあたりの設定が狂って、インテリが庶民ぶりっこしているような、くすぐったい感じがすることがある。

半分は時代が変わったせいだと思うが、同時に、書き手が、しょうがないから時代に合わせている、という感じが透けて、なんだか嫌みな感じがする。

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吉田秀和流を引き継いで現在の音楽状況を書こうとすると、「ドラえもん」や「サザエさん」に無理矢理スマホやコンビニを登場させるような掟破り感があったりもするわけで、

「私は凡人だが」の呪文を唱えるお作法では書けないことがある、と知るべきだろう。

その設定をまっとうする覚悟で書き切ることができたら立派だと思うし、それが「読書する公共性」なるものではあろうとは思うけれど、

それを全うするだけの足腰が整っていないんだったら、

「いちおう音楽学で学位を取ってしまったもので、つい、そのプライドが邪魔をして居丈高なモノの言い方をしてしまう、そんな私の意見ですが……」とか、「ジャーナリストで、実は昔からこれこれという感じに音楽とはつきあっているので、プロの音楽家といったってナンボのもんじゃ、と鼻っ柱の強い態度が出てしまうのは、我ながら致し方がないと思いながら書かせていただきますが……」とか、正体を明かしたほうがマシではないか。

無理と通すと、そのうち辻褄があわなくなって自分の首が絞まるのでは。