保守と革新と老人と子供

数十年前かそれ以前の価値観に固着した目で今の世界を眺めれば、なるほど奇妙なことは多かろう。あるいはあらゆる条件がすべて最大の効率で満たされることがなければ実現できない(ということは現実化することが事実上不可能な)理想を掲げて今の世界を眺めれば、なるほど不足が多かろう。

しかし前者を保守、後者を革新と呼ぶことにすると、この対概念は、政治の用語というより、コミュニケーション不全の下位分類になってしまう。

おのれの意見、自分の位置から見えている世界の光景と、それについての他人の意見、他人から見えている世界の光景が食い違うときに、両者をすりあわせて、何をどうするかと論議するところに政治があると思われ、そうではなく、おのれの意見、自分の位置から見えている世界の光景をひたすら言いつのり、おのれと世界が食い違うのは世界のほうがひたすら間違っているのだと考えることは、古来「ボケ」とか「老い」と呼ばれ、最近では「中二病」と呼ばれる。多少どぎついとしても、便利な言葉は利用したほうがいい。

わたしはクレタ人に会ったことはないが、そんなトバ口の段階で、おのれと世界が食い違った状態が何ヶ月も何年も続き、それでも平気、というのは、クレタ人に尋ねたとしても、「パラドクス以前」と言われてしまうのではなかろうか。

クレタ人は、「思うだけで罪である」という内面の宗教が世界を席巻する以前から活躍しているはずだから。

そして、居心地の悪い不気味さと居心地の良い親近感が表裏一体である、というようなフロイト的状況を人がさかんに探索するようになるより千年以上前、スフィンクスの時代から、ヒトのなかには、子どもと老人が含まれることが知られている。