やっぱり、念のため、「もうひとつのバカ対策」の消臭剤(笑)を撒いておいたほうがいいようだ。
日本のオペラは、まだ足りないことがそりゃあまあ色々あって、コンヴィチュニー旋風はいい刺激になったわけだけれども、
「演劇人」なる立場の人たちによるオペラ批判も、たいがい、いいかげんで粗雑で十年一日の進歩のない言いっ放しであることがしばしばなので、この機会に猛省とともに、物の言い方、オペラへの接し方をアップデートしていただきたい。これは、この機会に強く申し上げておきます。
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オペラにはドラマの側面があり、演劇としての基礎やノウハウが必要だ、という根本のところを自覚していないオペラ人はいないと思うし、無策に何十年も過ごしてきたわけじゃないんです。
(怠惰で、マジメに準備や勉強をしない、やろうにもどこから手をつけたら良いのかわからず右往左往する「未熟感満点の歌手の卵」は確かにいるだろうけれど、どこの世界でも、一定の割合で、進度の遅い子と優秀でどんどん進む人が混じります。オペラだけが特別じゃない。「総中流」と「機会均等」のアマルガムが今も確実に残っている日本の高等教育(それが悪いことばかりとも言いがたい)では、たぶんどの分野もそういう分布になっているはずで、それは、この場合の問題の焦点ではない。)
オペラ歌手が問題を自覚しながらも演劇的アプローチに慎重なのは、ざっくり言ってしまうと、「タチの悪い演劇人にひっかきまわされて酷い目に遭った経験」が大なり小なり、あちこちで、それぞれにあるからだと思います。制度としてうまくいかなかった、ということもあるだろうし、個人的に酷い目にあった人も、いるかもしれないし……。
演劇の人は口八丁手八丁であり、なおかつ、口より先に身体が動く始末に負えない生物なので、タチの悪いのが一匹でも入り込むと、おっとりした音楽家たちにとっては、駆除するのに難儀するわけです。そして一回でもそういう経験をすると、「もう演劇はいいわ」となる。今のオペラ界は、いくらなんでも、ウブな世間知らずの箱入り娘であるわけがない。それなりの人生経験の末にこうなっているわけです。
例えば、コンヴィチュニーは絶対にやらないけれど、舞台上の歌手の芝居が気に入らないときに頭ごなしに怒鳴って気合いを入れる、みたいなのは、演劇が音楽を暴力で屈服させて、陵辱しているに等しいと思う。そういう野蛮さがまかり通るような環境では、音楽と演劇の幸福な結婚はあり得ないと思います。私たちは、それに近い心の傷を抱えていることがしばしばであるオペラ歌手たちの心をどうやって開くことができるか、ということから始めなければならないのが現実だったりするんじゃないでしょうか。現場にそれほど通じているわけではないので想像ですが……。
(私が、今の若手のオペラ演出志望の人たちが期待できるかも、と思ったのは、そのあたりのややこしさをわかった上で何ができるか、地道に考えようとしている手応えを感じさせてくれたからです。)
とはいえ、コンヴィチュニーはさらに先へと突っ走って、稽古でそのような歌手との信頼関係を築いたうえで、というか、それがあるからこその「合意の上」でのアクロバットとして、舞台上で、音楽を途中でストップさせたり、アリアの途中でドタバタ騒動が起きたり、演劇的要素が音楽を切り裂き抑圧する異化的な場面を作るのですから、ちょっとマッドなヘンタイなのは否定できないですけれども……。圧倒的な才能のある人が、しばしばヘンタイに走るのは、文学も音楽も演劇も変わらぬ20世紀のおなじみの風景でしょう。
(日本の二人のノーベル賞作家は、どちらも間違いなくヘンタイだし、ノーベル賞を取れずに自決したあの人とか、存命でアメリカ在住のあの人は、知恵が回りすぎるので功を焦り、真のヘンタイになり損ねたと言うべきかと思います。西洋のインテリは、この種のヘンタイ成分が程よく入っているのを好み、利に聡いのを嫌うところがある気がします。)
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ともあれ、音楽と演劇の「縁組み」はデリケートで、犬や猫がサカリの勢いで交尾して子供を作るようなわけにはいかない。それが、コンヴィチュニーの言う「オペラは複雑であり、なおかつ、複雑な話はバカとはできない」の意味だと思います。
これだけ大変な経験をしたアンリ4世が、マルゴと別れて、フィレンツェから後妻を迎える、というような豪快な貴族の社交・外交のなかで、音楽と演劇が結婚して、オペラが誕生したわけじゃないですか。庶民ぶった目線で物を言うのはやめて欲しいぜ(笑)。
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小谷野敦風に言うと、オペラについて「一般論として」いちゃもんをつけたいんだったら、最低20公演観て、そのうち10作はヴォーカルスコアを通読してからにすべきではないか。かぐや姫(←先頃、沼尻竜典がオペラ化した!)のように高飛車で申し訳ないけれど(笑)。……わたしも、この基準はギリギリかもしれないので、「一般論」は恐くてなかなか言えません。そんな世界ですよ、オペラは。
そして、でも、そんな風な基礎教養を備えて舞台に立ち、裏方で働く人が、既に日本にも出てくる状態まで来ている。そこまできたからこそ、問題の複雑さがわかるわけです。
そして「オペラは複雑であり、なおかつ、複雑な話はバカとはできない」の格言は、誰よりもまず、オペラに色気をもっている演劇人こそが、肝に銘じるべきだと思います。(実際、公開討論会でコンヴィチュニーがこの発言をしたのも、そんな感じの文脈において、ですから。)
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オペラの音楽面と演劇面をどこでどうすりあわせていくか、というときには、通り一遍の芝居の基礎があるだけでは、どうにもならん。劇団「ひまわり」出身だから、とか、文学座の俳優養成所にいたから、とか、その種の基礎だけで歌手へのアドヴァイスをしようと思うのは、ブラバンでラッパ吹いてた子がプロのオーケストラの技術指導をしようと考えるくらい無茶苦茶で、とうの昔に、そんな野蛮な段階は過ぎています。
そして、だからこそ、かなり高度にプロフェッショナルな段階へ来ているからこそ、次の歩みをどう進めるべきか、難しいわけです。
「どうしてそんなことになっているのか、演劇界では考えられない」
という方式のオペラ批判は、何十年も前に言い古されており、しかもそのレトリックは、「民間では考えられない」と官僚を批判する橋下徹の悪質なポピュリズムと何も変わらないじゃないですか。それではダメ。そんなガサツな言い方で、オペラのプロフェッショナルの信用を得られると思ってるんですか(笑)。
わたしらは、オペラがそんな種類のスキャンダラスな大衆娯楽一辺倒になればいいと思っているわけではない。今さら浅草オペラじゃないんだから。
そういうことじゃないのよ。
劇場は恐いとこですよね。ちょっとエエカッコすると、そのツケが、全部自分に跳ね返ってきますから、お互いにその覚悟でやりましょう。演劇では常識だと思いますが(笑)。