偽悪を廃す

グローバルな国際社会、外交やビジネスの最前線は、礼儀正しい物腰を保っていないと相手にされないが、そんな風に社交と体面を保っているのは表面上のことで、一皮めくればエゴと欲望がむき出しになった「万人の万人への闘争」の現場である。だからこそのマキャベリでありホッブスであり、福田恆存であり竹内洋なのだから、偽善のひとつやふたつ、やって当然なのである。

という言い方があるわけだが、

他方で、実態としてはそれほど苛烈な生存競争にさらされているわけではないのだけれども、なんとなく他人に差を付ける生き方をしなきゃいけないのかも、という「空気」を察知して、ワルぶってみせる癖が付いてしまう環境というのがあるようだ。

本音のところでは、「行っていいところ」と「行っちゃだめなところ」がくっきりはっきりわかれていてくれたほうが安心だし(例えば、有調と無調、ハイアートとポピュラーカルチャーみたいに)、自分としては、「行っていいところ」で、勝負とか競争とか天才の閃きとかでなく、単に「遊び」を続けられたらそれでシアワセなのだけれど、小心者のボクは、そんな本音を漏らすと弱虫だとバカにされそうで、常に冷や汗ものの日々なのです。

そういう人のほうが、むしろ普通なのかもしれないし、だったら、それでいいと思う。

大学時代の哲学のセンセは、目が回るように華麗なレトリックでシロをクロと言いくるめるかのような物の言い方をする人だったから、やっぱり、ボクもそういうことをやらなきゃいけないのかなあ、と不安になったり、

地元の英雄と言うべき先輩は、どこからそんなものを見つけて来るのかさっぱりわからない不思議な譜面を平気でスラスラ弾いて見せるから、そんなものまで全部知ってなきゃいけないのかなあ、と必死で舌を噛みそうな名前を覚えたり、

大学院時代に出会ったこの分野のエース級の助手さんは、こっちが電気ショックで失神してしまいそうに舌鋒鋭く、あんなものはバカだ、これは素晴らしい、天才だ、とあらゆるものをなで切りにするから、そうか、学者というのはこうでなきゃいけないのか、と下宿に戻ってから、秘かに口マネをしてみたり、

若いときは、誰でも大なり小なり、そういう時期がある。

でも、試してみたけど身につかなかった、というのであれば、それは自分に合ってなかったんだから、もういいんじゃないの。

(対位法談義もちょっと怪しい感じがするんだよなあ。複数の声部が特定の主題を模倣しているわけでもなく絡まり合っているときに、本当にそれぞれの動きと関係が「聞こえている」のだろうか。聞こえたうえで「まことに面白い」と言っているんだったら、ここがこういう風になるところが面白い、と一度くらい具体的なことを書きそうなものなのに、まったくそれをやらないのは何故なんだろう? 3度の密集位置で2声のゼクエンツが始まったはずなのに、いつの間にか10度に開離するのが、このフーガの最初の間奏のスゴイところだよなあ、で、2つめの間奏では、同じモチーフを使っているのに、反進行主体だから印象が全く違うんだよね、半小節ズラして途中で主題が入ってくるけど、流れに馴染んでほとんど聞き逃しそうになるところもワザだよなあ、とか、言ってもいいのに。)

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身についていないものを形だけマネして、丸暗記して、まるで護身術みたいに反射的にそういう「偽悪」を相手に突きつける、というようなことをしても、たいてい、身についていないことはすぐバレる。

でも、オトナは、そういうときに、「あなた、それ付け焼き刃でしょ」などと面と向かって指摘したりはしない。そういう風に相手の心を見透かすようなことを言うのは、相手を独立した個人として尊重していないこと、相手を侮辱していることになるからだ。

黙ってやりすごすこともあるだろうし、それでは済まないときは、しょうがないから、「ほう、それをご存じなんだったら、私のところにはこういうものがあるので、是非、ご覧になってください」みたいに、こっちの付け焼き刃のワンランク上の何かに対処しなければいけなくなったりする。どんどん引っ込みがつかなくなる、というやつですね。

たぶん、ベートーヴェン・サムラゴーチやリケンのオボちゃんは、そんな風に深みにハマっていったんじゃないかなあ、と想像する。実態が露見してみれば、ご本人は、あっけないほどコドモだった。

偽りの人生で転落していく典型的なパターンのひとつとして、それほど珍しいことではないですよね。

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でも、さすがにあそこまで話がデカくなってもゲームを降りない人は稀で、通常は、付け焼き刃がバレそうになるピンチを何度か経験すると、やっぱりこれじゃあダメだな、と懲りると思う。

ただし、懲りてはいるのだけれど、何かの事情でそう簡単にゲームを降りることができない、ということはあるかもしれない。引くに引けない立場に追い込まれている、とか、ゲームを降りる勇気がない、とか……。

そしてそういう場合にありがちなのが、絶対に露見しない知ったかぶりを工夫する、というパターンだ。

相手があまりよく知らない分野の話でケムに巻く、とか、そういうの。自分でもよくわかっていなかったとしても、どうせ相手が正確な知識で反論してくることはないのだから、それは特に問題にならない。むしろ、「よくわからないこと」に遭遇して、周りに同じようにそれをよくわかっていない人が多そうだったら、むしろチャンスだ。それは、ネタとして使えるということなのだから!

というわけで、気がついてみれば、頭のなかは、いつの間にか、自分を成長させて、自分を豊かにする知識よりも、「よくわからないけれど、知ったかぶりには使えるネタ」のほうが多くなってきたりする。

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でも、人生はよくできてるなあと思うのですが、その種の「知ったかぶり」で切り抜けられるのは、おそらく40歳くらいまでだと思うんですよね。

40歳過ぎると、人間焼きが回ってくるといいますか、「誰にとっても無関係で、それゆえ、知ったかぶりをしても安全な領域」というのがどんどん減ってくる。まともに仕事をしていれば、自分とは別の領域に取り組んでいる様々な人と嫌でもつきあうことが増えていくからです。

かつては快調に「知ったかぶり」できたのに、人付き合いが増えるに従って、あれは○○さんがいるから使えない、これは××さんがいるからバレちゃうよ、となってくる。

夜酒飲んだときに、野球の話と政治家の悪口しかしない、みたいなサラリーマン(オヤジ)の描き方がありますが、あれは、周りにほぼ確実に当事者がいない「安全パイ」を探すと、そういうものくらいしか残らない、ということだったんだろうと思います。

……ということで、大久保くん、もうそろそろ、こっぱずかしいから床屋政談をオチに使うのは止めてもいいんじゃないだろうか(笑)。