「ラテン語で、ファンタジーように」

刑事コロンボの音と音楽の扱いは、どの回も、見れば見るほど面白いと私には思えてならないのですが、指揮者が犯人になる回(黒のエチュード)は、子供のころには気づかなかったけれど、オーケストラを理事会(いわゆる「ボード」ですね)が運営して、寄付金集めとか楽員の人事に強力な発言権をもっていることが、事件の背景として描かれていたんですね。いわゆるアメリカ型経営というやつ。

三谷幸喜の古畑における指揮者は、絶対音感で耳がいい、というネタしか入っていなかったので、他我のオーケストラや音楽家のあり方の違いが見えると言えなくもないですが、

その指揮者氏がハリウッドボウルで野外コンサートのリハーサルをしている場面が気になって仕方がない。

指揮者氏によると、モーツァルトのアイネ・クライネの第4楽章29小節目はアウフタクトをクレッシェンド気味にしなければいけなくて、なおかつ、この楽章は「クワジ・ウナ・ファンタジーア」であるらしい。

コロンボがお約束のボケをかます格好の瞬間が用意されているわけですね。

客席で並んで聴いていた指揮者の嫁(楽団理事長の娘)に、「今なんていいました」とコロンボが尋ねると、嫁は「ラテン語でファンタジーのように」と答える。「ほお、そうですか」で次の場面に転換するんですが、このやりとりの判断が難しい。

quasi una fantasia はラテン語じゃなくイタリア語で、これを質問したコロンボはイタリア系なわけだから、コロンボは最初から意味を知っていて、指揮者の気位の高い嫁を引っかけた、とも受け取れるけれど、それって視聴者に伝わるものなのか。

それを言い出せば、モーツァルトのこの音楽に「quasi una fantasia」という指示はないだろう、とも思われ、そこまで全部ひっくるめて、この指揮者夫婦は見栄っ張りで実は音楽家としてイマイチなんだ、という台本なのだとしたら、すごいけど高踏的過ぎるような気もする。

コロンボがイタリア系だ、という設定を脚本家やスタッフが忘れていて、なおかつ、この言葉がラテン語ではなくイタリア語だ、ということにも気づいていない二重のミスのようにも思うのだけれど、どうなんでしょう。

指揮者が練習のあと放送局のスタジオに連れてこられるまで、ずっと指揮棒を持ったままだ、というラストシーンの間抜けな絵面から考えると、この回の演出陣が quasi una fantasia という言葉を知っているとは思えなかったりもする。

脚本家は、プライドの高い指揮者夫人がイタリア系の人間にイタリア語を解説してしまう捻った皮肉のつもりで書いたのだけれど、撮影スタッフはそれに気づかず、コロンボの庶民派ぶりっこなボケにセレブがリアクションするいつものお約束のパターンとして演出してしまった、というあたりが真相なのだろうか。