「学校」の論理

生徒・学生は3年、4年で入れ替わるから、何らかの「失策」があったとしても数年経てば忘れられて、リセットしたも同然になり、新入生は「これが当たり前」と受け止める。

このリセット作用、「のど元過ぎれば熱さを忘れる」リフレッシュ効果は、なるほど、失敗を怖れず、どんどん色々なことにチャレンジすればいい、とプラスに活用することもできる。

でも、残念なことに「社会」は3年、4年ですべてをリセットするようなしくみにはなっていない。

「学校」の「対外的な対応」がしばしば変なことになるのは、あるいは、「社会」の「学校」への介入が無責任になることがあるのは、このような学校の「内」と「外」のときの流れの違いをズルく悪用しているのではないだろうか?

(なんか正しいことを見抜いたような気がするぞ。勘違いか? でも、クドカンの今度の女子校・男子校のドラマは、そのあたりの「学校的」なときの流れに触ろうとしてますよね。

今の学校の先生の「子ども時代」は既に21世紀なので、オッサンの目には子どもが子どもに何かを伝えようとしているとしか見えなくて、軽いショックを受けたわけが、今現在「親」であるところの同世代の方々が目撃する、現在の幼稚園や学校は、こういう感じなんですかね。「学校」という制度のリセットして若くあり続けられる力は、良い方向にも良くない方向にもスゴイと思う。

内田樹が「先生はえらい」という本を出しているが、社会制度としては、やっぱり「学校」というしくみが強力なのであって、このしくみを動かす重要なプレイヤーとなることによって「先生」は「えら」くなり得ているのではないか。この件については、私は「人文」を裏切って「社会科学」風にものごとを捉えたいと思う。機能主義だか構築主義だか社会システム論だか、はたまた批判理論という名のマルクス主義だか、細かいことまではよーわからんが。)