精読・ステルス広告(読書の秋・芸術の秋)

http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/stage/141105/20141105034.html

第一段落:いったい何の話をはじめようとしているの? と話者を釣り込む書き出し → 新聞記者が書くやや長めのレポートのリード文の典型をなぞったもの

第二段落:第一段落を受けて、○○に行った、とレポート対象を告げる。 → これも第一段落と対になった新聞記者の書くリード文の典型。ただしこの文章では、実はこのイベント・レポートが「本題」ではなく、さらにこの先へ続く宣伝への釣りになっているところがミソ。この文章の著者は、新聞記者の仮面をかぶった宣伝パーソンです。

第三段落:通常のレポートでは、一番大事なことを最初に書いて、「また、○○もあった」と補足する。ところがこの文章では、「加えて」とあたかも補足・ついでであるかのように書き出された先に語られるものをこそ、著者は宣伝したいと考えている。イベント・レポートが偽装に過ぎないことを如実に示すトリックであると言えよう。「加えて読者にご注目いただきたいのは」(笑)、戦慄(せんりつ)が走る、という語彙の投入。ここまで自然体で綴られてきた文章を気軽に読み進めてきた読者は、ここで強い表現に不意を打たれる。つまり、本当に宣伝したいものだけを強い言葉で極端に強調するべく、語彙の調合がなされているわけである。こうして、いわば電気ショックで読者の記憶をリセットし、イベント・レポートのことを忘れさせて、本当に宣伝したい作曲家の名前だけを読者の脳内にインプットする。どこで覚えたのか知らないが、きわめて巧妙な「洗脳」のテクニックがここでは駆使されている。[わたしは、かつてマインド・コントロールの名で世間の論議を呼んだ技法がこうしてカジュアルに宣伝・広告に用いられている事実に気づいたとき、まさに「戦慄が走り、悪魔の笑顔を見た」。]

第四段落は、本当に宣伝したいイベント名。イベント名称だけでひとつの段落を構成するのは、もちろん、強調のレトリックである。

第五段落は、前の段落で提示された本当に宣伝したいイベントの内容紹介。事実ベースで情報を効率良く記述する広報の基本文体で綴られている。読者は是非、この段落と第三段落を比較してほしい。一見イベント・レポートのように思わせながら実は「釣り」に過ぎなかった公演(第三段落)についての記述と、本当に宣伝したいイベントについての記述(第五段落)の情報密度の差は歴然としている。広報パーソンは、自分が売りたいイベントが他より目立ち、素晴らしく見えるようにあらゆる工夫をするのである。

第六段落:「早い話」という言葉の使い方がやや不適切だが、それを含めて、ここでは、読者に口語でフランクに直接話しかける文体が採用されている。情報を高密度でまくしたてた第五段落との落差で読者を巻き込む香具師の緩急、「押して引く」呼吸である。

第七段落:識者のコメントの引用。新聞記者による取材記事の文体を採用しているが、実際には、著者が広報担当として立ち会った記者会見での発言だと思われる。前の3つの段落の、どうしても伝えなければならない情報・効果のみを露骨に「広報・広告」して、ふたたび新聞記者によるイベント・レポートの文体に復帰する。しかし、ここで識者コメントを装って挿入された文章は、リード文(第一、第二段落)で予告されたイベントに対するものではなく、著者が本当に宣伝広告したい公演(第四段落以後)に対するものなのだから、新聞記者の取材レポートの文体はちょうど真ん中に亀裂が走り、前振りと後半がズレている。そして割れ目の向こうに「広報・広告」の溶岩が沸々と煮えたぎり、噴火寸前である(特別防災警報!)。

第八段落:新聞記者による取材記事の地の文を模倣した文体による「広報・宣伝」が続く。ただし、最後のポエム「無機的行為の先に、太古の風景が立ちのぼるパラドックス」は、広告の地金が出たと言うべきであろう。新聞社の厳しいデスクであれば、記者がこのような文を書いたら、客観記述ではない、として書き直しを命じるかもしれない。外部著者の文章であっても、高踏的にインフレ気味の語彙を新聞でかくも不用意に投入する例は珍しい。今時これをやるのは、ポモ崩れのダメな評論家と広告パーソンだけであろう。

それに、「無機的行為」と「太古の風景」は逆説を構成する関係にはない。著者が「太古の風景」は有機的・人間的だと考えているのだとしたら、ここで紹介されている作曲家を「現代の機械文明vs古代の自然人」というあまりにも牧歌的な枠組みに嵌めていることになりそうだ。ロマン主義のノスタルジーや共産主義の疎外論じゃあるまいに。構造人類学や最新の神話研究を読むべし。

第九段落:「最新情報だが、」が意味不明。最後の「指揮者は電波で飛来するのか!?」も同様で、やややっつけ仕事に見える。もしかすると、本当に作文の最中に舞い込んだ最新情報を慌てて突っ込んだのかもしれない。著者の粗忽な性格が垣間見える。(そんなもの垣間見たくない、という読者の意向などおかまいなしである。)

第十段落:締め。私見では、このように全体を気の利いた言い回しでまとめるのは、やや常套的に古くさく、新聞や雑誌のライターの最新のスタイルではないようにも思われる。私も、公演評の最後をこういう形でまとめたことがあるが、何回かやっていると、実は安易に書けてしまうことがわかり、今は気恥ずかしくて、よほどのことがなければ使わない。文の締め方も芸のうちである。

[いまどきの新聞は、こういう文体で読者を誘い込むコラムが、アリなんだねえ……。連載が続くことで、著者はエッセイの腕を磨くのではなく、どういう種類の広告・広報のパターンがあり得るか、モンスター的に職業スキルを磨いている気がする。わたしたちの青春だったセゾン・サントリー広告文化は永久不滅、セゾンカードはポイントも永久不滅、ガンバッテ!]

[追記:ちなみに、これはホールの広報担当さんがおそらく独自に開拓した情宣ルートを使って、少しでもチケットが売れるように独自の判断で広告展開しているほほえましい事例であって、作曲家や主催者が直接発信しているわけではないと思われます。

三輪眞弘さんは、生音へのこだわり、舞台上で起きていることが「ナマ」でそのまま客説に届くことを重視して、混じり物やウソやゴマカシを入れないフェアネス、フェアプレイに特徴のあるクリエイターさんですから、その人の仕事が、こういう風にメディア内で情報を乱反射させるトリッキーな文章で宣伝されてしまうのはどうなのか、と思わないではないですけれど、

たぶん、公演はちゃんとしたものになるんじゃないでしょうか。

作曲者自身が作っている事前情報は、これとは全くテイストの違うわかりやすいものですし……。

録音された音楽とは一線を画したいと考える人なので、消費社会のあれこれに毒されて心と耳が濁ってしまっている向きには面白さが伝わらない傾向があり、その意味でも、この宣伝は、どこをターゲットにして、誰に何を訴えようとしているのか、戦略の絞り込みを間違っているんじゃないかなあ。むしろ、日頃からメディアのトリックにどっぷりつかってウンザリしている人たちに、ちょっと違った空気を吸ってみませんか、と誘い水を向けるような広告が適切だったんじゃないか、書き手がすっぴんで出てくる勇気を見せてもよかったんじゃないか、とは思いますが、それができるかどうかは書き手の力とか、媒体を成り立たせている諸事情とかもあるでしょうから、広報パーソンが新聞記者のコスプレで紙面に登場したことは、珍事として別立てで楽しめばいいのでしょう。(広報さんが、日頃仕事でおつきあいのある一回り以上若い今時の音楽担当記者のあの人やこの人の文章を参考にしながらコスプレしたんだろうなあ、と思いますが、個人の感想を言えば、わたしは萌えない。無理してる感じが見え見えだもの。)]