「読了」って何だ?

「○○読了」とつぶやく人をときどき見かけるが、あれは、いったい何が「了」=終わったと主張しているのだろう。

読書などという行為は「複製技術時代」の理想に照らせばあるまじき旧時代の遺物であって、本来であれば「複製技術時代」には「脳」というコンピュータ内で閉じた情報処理が半永久的に続くべきなのに、書物などという物体があるばっかりに、「瞳」という外部デバイスで最初の活字から最後の活字まで順番に、シリアル通信などという古くさいしくみでリニアに処理しなければならない。なんとレガシーな行為であることよ。

そして「読書」のあいだは、脳内のインジケータが「75% (残り15分)」などと刻々とカウントして、スキャンが終わると、

「読了しました。(所要時間1時間34分)」

とアラートボックスが表示されたりするのだろうか。

だとすれば、

「書評」とか「解説」とか「読書会」とか、そういう作業は、「脳内」に「読み込み」が完了している書籍ファイルを使った二次制作だからチョチョイのチョイ、二次制作で肝心なのは、書物そのものではなく、「出会い」や「コネ作り」だったりするのだろうか。

ーーーー

このような「読書観」は、おそらく、瞳による情報のスキャニングと、脳によるその情報の逐次処理が並行して進むマルチタスクのイメージとセットなのだろうと思う。

その「書物」に誰が何をどのように書いており、それは手持ちの既存情報のどこにマッピングしたらいいか、等々について、今時の高性能な「脳」はほぼリアルタイムに処理できちゃう、というイメージなのだろう。

(「複製技術時代」は、高いスペックの「脳」でしか動作保証されていなくて、だから、大学の特権だったり、「最新のコミュニケーションツール」でのみ実現されたりするのでありましょう。なるほどこれは、「1990年代に夢見られていた未来の姿」なのかもしれない。)

そしてそのようなリアルタイムのスムーズな「読み込み」に失敗することがあるとしたら、それは、「脳」の責任ではなく、デバイス側=書物の側が欠陥品だ、と判定されたりするのかもしれない。

欠陥のあるディスクをトレイがペッとはき出して読み込みを拒否するように(Windowsにもこの機能があるのか知らないれど、Macはこんな風にわがままで、今時の人文の先生は「Macでなければ人じゃない」を通過した世代)、読めない書物をプイと突き返す権利、これこそが「受け手の創造性」、「作り手中心主義への痛烈な反撃」の経済基盤なのでありましょう!

……アホか、ちゅう話や。

読んで、すぐに全部解読できてハイおしまい、なんやったら、書評とかいらんがな。

その書物にどのような文字列が印刷されているのか、ひととおり確認したところから、あれやこれやと考え始めるから書評とか解説とか議論とかが成立する、というのが、おそらく、書物というメディアが長らく使い続けられている背景にある行動モデルだと思うのだが、近頃の脳は、「読了」したら、もう、何も考えないのだろうか?

「つぶやき政治」的には、次のネタがひとしきり盛り上がって、フォロワーの脳内が「上書き」されて一安心なのかもしれないが、

(つぶやきメディアは、小鳥のように脳のバッファが小さいことを前提に稼働しているように見える)

わたしゃ、増田先生がどういう書評を書くか、それが何ヶ月後になろうと何年後になろうと、それを読むまでこの件は「完了」しない、という立場です。

だって、「流行歌における中国趣味」とか、「カタコト歌謡」とか、良くも悪くもあれこれ問題含みですから、数ヶ月や数年では、とても「完了」する課題じゃないはずだ。増田先生が忘れても、私はたぶん、そのあたりのことを折に触れてずっと考え続けると思うので、忘れようがない。

「読書」ってそういうものだろう。

で、「読了」って、いったい何が「終わった」の?