不戦敗の敗戦処理

最近、いわゆる「リベラル」(小谷野敦だったら「なんリベ」と呼ぶのか)の人たちが現政権のいわゆる「右傾化」に戦々恐々として、何かというと「戦争への道を着々と歩んでいる」と言うが、右とか左とか、そういうイデオロギー抜きに情報の流れ方、流し方だけみていると、サヨやリベの人の「流言飛語」率は、ウヨの人のそれと同じか、ひょっとするとそれを上回る状態になっているのではないだろうか。

何が嘆かわしいといって、それが一番、情けないことであるように私には思える。

サヨやリベの人は、「今にも戦争が始まりそうな気配」を怖れているが、私には、「既に闘いは終わっている」ように見える。

北米のネオリベとかEUの通貨統合とか、ユーラシア大陸の2つの帝国の台頭とか、アジアの海沿いの諸国の経済成長とか、冷戦後の20年で「失われなかった/迷わなかった」国々は、めちゃくちゃ勇ましく戦い続けたわけじゃないですか。主戦場は経済の覇権争いで、付随して戦争・紛争・テロもたくさん起きている。

「失われた20年」なるものは、端的に「不戦敗」ですよ(笑)。「不戦敗」で既に世界はワンゲーム終わってる。

で、どういう不戦敗だったかというと、ガラパゴスなものづくりとヴァーチャルな「クール」の組み合わせで、脳内のお花畑に遊び続けて、面倒なことは全部先送りした、ということだと思う。

景気の悪い状態が異例に長く続きすぎている、という表看板を掲げながら、中に入るとガラパゴスとお花畑、ということで、まあ、それなりに上手に鎖国することで不戦敗、と見ればいいんじゃないかと思う。

アベちゃんの、なんたらノミクスは、不戦敗でも負けは負けなので敗戦処理をしなきゃいけないということで、「戦後的」であるように思うのですが、違うのでしょうか?

(当人はどちらかといえば小人物で、ウソを上手につくことすらできずに貧乏くじを引きそうなタイプだけれど、過去20年のヴァーチャルで要領の良すぎるニッポンを清算するには、それくらいの愚鈍が丁度よかった。しかも、ひとつ前の「戦後」の「レジーム」なるものを固めた官僚政治家の孫なので、イメージ的にも、今の情勢にキャラがうまくハマっている。そういうことではないのだろうか。)

対立軸、なるものがあるとしたら、「まだ戦争は終わっていない、いや、まだ始まってすらいないのに、何を物騒なことを言っているのか」と惚けた感じの人たちと、「おばあちゃん、そうですね、苦しかったね、恐かったね、よく頑張りましたね、わかります、よーくわかります。でも……、もう終わったんですよ。だから、これからのことを考えましょう」と言わなければしょうがない跡取り息子の立場の違いなんじゃないだろうか。

サヨとかリベの代理人を請け負いたいと思っている人たちは、だから、惚けた人たちの言うことはそれはそれとして、この人たちが路頭に迷わないように、冷静に遺産相続とか補償金とかの交渉で少しでも有利な条件を相手から引き出すことを考えるしかないんじゃないか。

もし、今が「戦前」なんだったら、勝負をするかしないか、プロパガンダ合戦になるのもわかるが、この期に及んでそれをやり続けようなどというのは、先の世界大戦のあとのブラジル日系移民コミュニティを混乱させたと伝えられる「勝ち組」(大日本帝国は勝利した)と「負け組」(大日本帝国は敗北した)の対立みたいなことになってしまうのではなかろうか。

(ブラジル日系人「勝ち組」はウヨ、「負け組」はサヨだから、イデオロギー的には現在のニッポンと逆で、今は、サヨやリベの人たちのほうが「勝ち組」風に私たちは負けてないと言い張って、ウヨの人たちが「負け組」風に敗戦処理を進めようとしているわけだが、当節のニッポンのサヨやリベの人たちを「勝ち組」と呼ぶのは、なんだかんだ言って過去20年上手に世の中を泳いできた人たちがオピニオン・リーダーだったりするので、妙にしっくりきますなあ(笑)。)

でも、今が既に「戦後」なのだとしたら、必要なのは生存の可能性を高めるための具体的な条件闘争だと思う。