「スペックと実装」というモダニズムの罠

「○○とは何か/何だったのか」という問いを立てたら、まず真っ先に○○の spec を確認する。

ひとまず順当な手順だとは思うのだが、この場合、spec の読み方が問題になるような気がする。

spec は仕様と訳されるけれど、語感としては「見積もり」と言ったほうがいいんじゃないかという気がする。

spec/spect は欧米語に頻出するラテン語由来の語幹で、「(よく)見る」というような意味があるようで、だからたぶん spec は、よく見られる=しっかりチェックされることを想定して作成された見積もりなのだと思う。そして、spec をただ「よく見る」だけでは、物事が循環して、同語反復で終わってしまう。

見積もり(spec)が、見栄えのいい/ぱっと見てわかる特徴を備えている(special)かどうか、そして、他と区別しうるような特徴が過不足なく盛り込まれている(specific)かどうか、というようなことをチェックしても、それは、spec が spec と呼びうる特性をもっていることの確認でしかない。見積もりが見栄えよく見積もられている、というだけだ。

そのあとで、仕様通りの実装 implement が整っているかを調べても、はいそうですか、で終わる。

これがいわゆる「モダニズム」ってやつですね。

物事を効率よく推し進めるための便利なしくみなので、使えるときにはどんどん使えばいいわけだが、しかしそれじゃあ、「モダニズムとは何か?」と問いたくなったときに、モダニズムの仕様と実装をチェックする、ということになると、出口がふさがってしまう。その「仕様と実装をチェックする」という振る舞いこそが、そこで問われているモダニズムなのだから。

「ああうっとうしい! 仕様書こそが諸悪の根源、全部、焼き払ってしまえ」というのがおなじみのアナーキズム、20世紀版の「自然へ帰れ」、ルソーの末裔、ラッダイトやヒッピーやクラッキングの祝祭なわけで、

反対に仕様書を見えないところへ隠しちゃう、その存在を忘れさせちゃう、というのが「虚構の時代」の戦略だったのだと思うが(「マクガフィン/フェイク」を連発するエンターテインメントとか、「敢えて」のスノビズムとか、半透明のレイヤーを噛ませて知覚を宙づりにする「デジタル」とか、色々な手練手管があったよね)、

性急に物事を運ばなくても、思考停止にまどろまなくても、仕様書というやつは、もっと色々自由な読み方・書き方・使い方があるんじゃないかと思う。

モダン・アートでもグラフィック・デザインでも電子音楽でも、いい成果を出している人は、仕様書の読み方・利用の仕方が上手い、という印象がある。実装を検査・監査するためのチェックリストとしてではない使い方を見つけると、話が面白く転がり始める。

20世紀なるものと良好につきあうコツはこれではないか。

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映画版は肝心の府庁前の対決シーンでストーリーが破綻しちゃうけど、会計検査院という「仕様と実装のチェック」が仕事の三人組がそうではないところへ巻き込まれていく話は、モダン大阪の解読手順として、実にまっとうですよね。

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そして昨年のサントリー学芸賞は、分厚い本が受賞して、大きなテーマにふさわしい壮大な仕様ではあるけれど、ほんまに動くのかどうかよーわからん設計図だけ立派な巨艦主義という感じが否めない。実際に頁を繰ると、荒っぽいところが次々出てきて、最後までつきあう気力が失せる。審査員は本当にちゃんと読んだのだろうか。

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スペックを喧伝した先で何が起きるか。Uボートが「眼下の敵」のようにかっこいいもんじゃない、という種類の暴露は、話の展開として既視感がありすぎるわけだけれども、飽きずに繰り返されてしまうのはなぜなのか、問題。

仕様と実装の齟齬を暴露する、という論法だけではすぐに限界に突き当たるし、ペーターゼン監督自身は、その後、もっと上手に面白い映画を作っているのに。