break through の添削

同じであることと、異なることは、二者択一ではなく、その間には広大な領域が開けている。西洋人が ratio (比=理性)を信奉するのは、ratio の可能性の展開=アナロジーを武器にして文明を開こうという企てであった面があるかもしれない。

などと言い出すと大風呂敷に過ぎるわけだが、そういえば、シューベルトの変奏技法という修士論文は、そういう話に手を伸ばそうとしていたのかもしれませんなあ。文明への凡庸な憧れとしてのシューベルト(←四半世紀後に振り返ると赤っ恥である)。

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https://twitter.com/smasuda/status/561075636647653376

増田先生が何かをつかんだ感触を得ていることはこのあとの連続投稿から明白だが、ここで「正しさ」の語を用いるのは文学的過ぎるのではないか。ミッションの遂行を第一義とする団体が構成員に「復唱」や「上意下達」を求めるのは「正しさ」の追求・要求なのか、あるいは、出典を明示することで検証可能性を担保するのは「正しさ」の追求・要求なのか。

思うに、復唱や上意下達と出典の明示、デジタルコンテンツの複製といった事象を十把一絡げに「コピペ」と呼んでしまう雑駁さを維持するのが適切か否か、検討するときが来ているのではないか。

「コピペ研究家」という看板を掲げるのがいいのかどうか、という先生のパブリックイメージの根幹にかかわってしまいますが……。

私個人の意見としては、「同じであること」に反発して、意固地になれとけしかける、そういうアジテーションだけなら、別に大学である必要はない、と切り替えされちゃうように思う。なんとなくリベラルな敗北主義。

むしろ、「同じであること」と「異なること」の中間領域をどうやって開拓するか、そんな作法を習得するだけでも、ツブシが効いて、少なく不幸であろう、とか、そのあたりが落としどころではないか。それだけでは画期的なユートピアが開けるわけではないし、先端的な「G」さん(←ジイサンという言葉の響きは先端っぽくないけれど(笑))は「G」さんとして華々しくやっていただくとして、現有リソースを考えれば、大学の最大公約数的な存在意義は、そういうお作法を身につける場所、というだけでも十分なんじゃないか。

おうむがえしの復唱しかできない生き方は息苦しいが、「自分らしさ」の殻に閉じこもられてはとりつく島がない。その中間を上手に泳ぐやり方を一緒に考える場として、大学という緩衝地帯が社会のなかに設置されているのです、ということでどうか?

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http://blogs.yahoo.co.jp/katzeblanca/26391300.html

ほぼ同じタイミングで大久保賢がモンタージュと言い出したわけだが、前後の文脈から切り離された動機の再登場によって回想・想起の作用を生み出す手法には、オペラの「回想動機」という19世紀初頭以来の常套手段があるのだから、チャイコフスキーの交響曲はオペラのような様式で書かれているのではないか、という議論の系譜を押さえる必要があるだろう。オーケストラ音楽だけを見ているとみえない水脈があるんじゃないかということ。歴史は「どうでもいいことじゃない」ということです。

ついでに言えば、20世紀の新機軸とされるコラージュ/モンタージュは自己完結しない複数の文脈の衝突による異化的リアリズムとか、自動記述を夢想するダダイズムとか、無意識をまさぐろうとするシュールレアリズムとかにつながるのだから、ますますもって積極的に「歴史」をアートにインストールする技法でしょう。アートの夢にまどろむボンクラが、目を覚ませ、と揺すぶられている。(たしかにチャイコフスキーにおける回想動機は、ベルリオーズ流の固定観念(イデー・フィックス)よりパワーアップしてトラウマ的で、アドルノのマーラー解釈が言う「Durchbruch」(アドルノ信奉者は仰々しく「突破」とか言うけど、Durchbruch って英語で言えばブレーク・スルーだよ)まであと一歩な感じがあるかも。)

[もしこれらの主張がレポートの答案として提出されていたら、私はこんな風なコメントを添えて返しただろうなあと思う学年末の「採点脳」。]