- 作者: ヴィクトルユーゴー,豊島与志雄
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1987/04/16
- メディア: 文庫
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全盛期の小説ってこうだったっけ、と読みながら逆に新鮮な気がした。今の普通の生活のなかで、これだけ分量の多い話にじっくりつきあう時間を見つけるのは並大抵のことではないと思うし、逆に、出てくる人物それぞれと、じっくりつきあうことなく色んな物事が流れていくのは、生き急いでいるよね。
この根気がデフォルトになっているような世の中じゃないと、4管編成のオーケストラ総譜を1時間分書こうとは思わないだろうと思う。
ちなみに、リゲティのオーケストラ作品は、ひょっとすると演奏頻度の多いものは順次活字(という言い方でいいのだろうか?)に起こされているのかもしれないけれど(あの30歳を越えた感じに見えない少年は活字化された譜例を動画に挿入していたし)、でも、作曲者が生きてた頃は、みんな、自筆譜そのままのファクシミリ版を眺めて演奏したり、論じたりしてきたわけですよね。西村朗の作品などは今でもそうだし。
よくまあ、これだけの音符を書いたものだ、と、まず思う。
小説は、筋だけ追いかけようと割り切ってしまえば、ばっさり飛ばし読みできるが、音楽でも、よく知らない曲、わからない曲をぼーっと1回だけ聴くのは、それに近い体験なのだろう。
平気でそうするのがデフォルトになりつつあるのだとしたら、まあ、大変な世界にわたしらは生きているということですな。
(ちなみに、最近の日本の吹奏楽曲(コンクール全国大会で自由曲として通用するような)がスコア40段ってなことになっているのは、吹奏楽がオーケストラと肩を並べる品質に高まった、というのではなく、Finale のおかげだろうと思う。あの立派なアウトプットを眺めていると、オーサリングソフトがあれば、長大で複雑なコンピュータプログラムが生成出来てしまうのを連想する。
こういうのと、リゲティの手書き総譜のファクシミリの違い、そしてその向こうにあるシュトラウスの4管編成とは何だったのか、ということを考えると、実はリゲティとシュトラウスの距離はそれほど遠くなくて、過去30年くらいの「情報遊び」が勝手に暴走して幻を見ているだけじゃないか、と思えてくる。
もうこんな感じに浮かれて30年ですからねえ。
遊びにかまけた人と、そうじゃない人と、随分差が付いちゃっているような気がする。知識とかスキルとか、そういうのもあるかもしらんが、人として。)