力とエネルギー

ここにも、音響至上主義とは別のタイプの物理学主義があるような……。

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力(power)という概念というか現象はごく普通に色々なところに観察されると思うのだけれど、力それ自体よりも、力の積分としてのエネルギーという概念が問題含みなんじゃないか。

エネルギーは位置や運動や熱や光に変転し続けながら、総体としては減ることも増えることもない。そしてエネルギーの絶えざる流転の諸相こそが、すなわちこの世界なのである、というのが、古典物理として私たちの知っている自然哲学なわけですよね。dynamism ってのは、漢語になりにくい言葉だけれど、たぶん、そういう世界像を指しているのでしょう。

古典物理は、エネルギーの神学みたいなところがある。

で、自然哲学としてそういう仮説を立てるのは良いと思うんですよ。というか、私ごときが善し悪しを言うことではなく、この仮説を立てたことで見えてきたことがたくさんあって、その先に今日がある。

でも、事物の背後には常にエネルギーあり、とか、この世界で生き抜くためにはエネルギーなるものの充足が必須である、とかいうことになると、悪しき物理学主義というか、比喩の濫用だろうと思う。

どんな様態でもいいから、できるだけ多くのエネルギー(なるもの)を我が身に集めたい、とか、集めたエネルギー(なるもの)をこれみよがしに行使したい、みたいな独占欲をもつ人がいる、とされているわけですね、たぶん。

でも、たとえば音楽って、実はそういう古典物理が壮大な世界観を築くより前から人間が営んでいて、結構、省エネな芸能というか、dynamism で対処できる範囲はあまり広くないんだよね。音楽において「力への意志」とでも申しましょうか、 dynamism が追い求められたのは、ワーグナーからマーラー、シュトラウスくらいまでの数十年でしかない気がする。

20世紀半ばの「万人の音楽」路線は、巨大なシステムが稼働している感じのほうが強いと思うし……。

[余談ですが、先日日経に書いた演奏評で私が佐渡裕の「復活」をいい!と書いたのは、彼がここ数年で、長らく世評で言われてきたような熱血でエネルギッシュとは違う何かをつかんだことが、はっきりわかる演奏だったからです。]

直接五感で把握できない不可視の源泉としてのエネルギーなるものは、貯め込んでも処理に困りそうだよね。ぐるぐる回していけばいいじゃん。

(そうは思わない人たちが「権力」とか言うのかなあ。)

自然科学というか自然哲学においても、量子論とか宇宙論の先端のほうへ行くと、ちょうどエーテルという物質を想定することなしに光の伝播が説明できるようになったように、エネルギーなる観念はどんどん別の仮説に置き換えて説明し直すようなことが起きている風に見えますよね。私の無知による誤解でなければ、20世紀から先の自然哲学は、そういう動向のように思うのだけれど、違うのだろうか。

あるいは情報論や認知論は、はっきり枝分かれしてモードが変わっているように見えるし。