歌詞の引用

話は単純である。

  • (1) 引用か転載かを争う裁判の判例には引用の要件が記載されるはずで、そうした判例の要件に該当すれば、それは引用なのだから、転載に必要な手続き等は不要になる。
  • (2) ところが、文学については「引用か転載か」を争う裁判が既にあり、その判例を参照できるが、音楽(歌)の歌詞について「引用か転載か」を争った裁判はまだないので、参照できる判例はない、とされているようだ。(ネット上でざっと検索してそう理解したのですが、間違っていたらご指摘ください。)
  • (3) だから、これは引用か転載か、判断に迷う事案は、どう判定されるか、裁判してみないとわからない。((2)が私の間違い・認識不足でなければ、そういうことになるはず。)

だったら、堂々と「歌詞を引用」したうえで、それは引用ではなく転載だ、と異議を唱えられたら裁判するしかないじゃん。

裁判の結果は、やってみないとわからないのだから、文化庁だろうがJASRACだろうが、今の段階で確たる線引きを宣言したり、指導したりはできないだろう。できないものを、やれ、と文句言ってどうするか。

あとは、法律家なり研究者なりが、「おそらくこれなら裁判で負けることはあるまい」というラインを、己の威信に賭けて提案するしかないんじゃないの。で、そういう提案をする以上、「何かあったら、オレのところへ言いに来い。弁護団に加わって証言台に立ってやるから心配するな」くらい言えよ。

リベラリズムとはそういうものだろう。

[でもまあ、法律上・理念上では、歌詞の「引用か転載か」問題は今後裁判で決着されるべき未決問題なのだけれども、社会の実態としては、「裁判するのも大変だから、権利者の顔色をうかがいながら、ここまでは大丈夫、という暗黙の了解を忖度して、穏便にやっていきましょう。そして安全を期すためには、お布施と思って、ちょっとした引用でも「転載」の手続きを踏んでおきましょう」ということになっているのかもしれませんなあ。

平和といえば平和だが、ひとつこじれたらややこしそうな危うい平衡状態ではあるかもしれない。

「歌詞さん、歌詞さん、今わたしの目の前にいるアナタは引用されているの。それとも、転載されたらサヨウナラ、なの」]