学問と良心

前にも書いたが、渡辺裕が「音楽学とは関係のないテーマを選んで発表しなさい」という演習を大学院の音楽学演習で受講生に課したことがある。「佐々木健一先生が同じような演習を東大美学でやったことがあり、とても有益だったので、私もやる」とのことであった。

この種の課題は、「元ネタへの尽きせぬ愛と十分な理解がなければ面白いパロディはできない」という逆説に依拠している。

受講生に音楽学なるもの(佐々木健一の場合は美学なるもの)への愛と理解がゆきわたっている状態でなければ成功しないわけで、いってみればこれは、「私たちは余裕綽々でパロディができるほどに音楽学(美学)に習熟しているのである」と半ば自堕落、半ばナルシスティックに自分たちの特権的な地位を祝福する儀式になる。つまりこの種の企画は、仮に成功したとしても、エリート意識がプンプンと臭うイベントになることが避けられない。

でも、失敗したんだよね。

どう失敗したか。

そもそも、阪大の大学院生程度では、音楽学なるものへの愛と理解のどちらか、あるいは、両方が十分ではなかったりするわけで、しかたがないので、学科への愛と理解のかわりに、受講生たちは、渡辺裕への愛と理解で対処した。「渡辺裕先生がどのような嗜好の持主であるか、先生が何をお喜びになるか、私は十分に心得ております」ということをアピールするべく、先生の趣味にあうテーマを選ぶことで、受講生たちはその場を切り抜けた。

どうやら今でも、この種の「教員もしくは学科への忠誠心」を試験する教員というのが一定数出てきてしまうらしいのだが、

自身が取り組む学科のアイデンティティへの不安を、受講者の学科への忠誠心に転嫁するような戦略は、問題の先送りに過ぎないのではないか。教員は、受講生に「良心」の引き渡しを求めて、それと引き替えに単位を認定する、というようなことをしてはならないように思う。

別の意見があるのは知っているが、少なくとも私は、学問によって「良心」を操作されるのは嫌だな。個人の意見でしかあり得ないが。