20世紀後半の思想

Apartheid(切り離して apart、隠す heid)は、1948年の総選挙後の南アフリカ連立政権(のちに合併して国民党)の施策が総称してこう呼ばれているようで、なるほどそう言われてみれば20世紀後半の保守の思想だなあ、と思う。太陽族が登場して55年体制とか、ハイウェイと情報・サービスのアメリカ、とほぼ同時代だ。

(アパルトヘイトの「ヘイト heid」は、英語で言えば hide 隠す、や hood 覆い、に相当するオランダ語で、差別 hate は、「切り離し・隠す」という行為の裏に隠されて、文字面には現れていないみたい。そこが「20世紀後半的」であるように、私には思える。「言葉狩り」ともどこかで遠く通じ合う発想かもしれない。「不都合なものを隠す」は、必ずしも「未開な前近代の遺物」ではなく、今そこにある。)

世間は今、思想の話をしたいわけでも、文学の話をしたいわけでもなさそうだが、20世紀後半の作法と枠組みで語り続けたい人がまだたくさんいるようだ。

一方、創作と引用と剽窃、自我と他者、区別と差別、等々の間に隠微なグレーゾーンがありそうだから、そこを突く、バグに付け入るクラッキングの一点突破ですべてが反転するはずだ、というのは、これも、どこかしら20世紀後半の抵抗の作法っぽい。それがポスト・モダン、近代の超克という、だまし絵のレトリック。空き地の秘密基地の20世紀少年だ。

「区別は差別ではない」論は、本音(「そうは言っても混ざりたくないんだよね」)を、建て前(「差別反対」)から切り離して(apart)・隠す(heid)。隠された本音は野放しのパワーゲームになる。

「オリジナリティなんてありゃしない、コピペ万歳」論は、その主張をふりかざしつつ確保した編集権を、創作から切り離して(apart)・隠す(heid)。隠された編集権をいつどこで誰がどのように行使するかは、野放しのパワーゲームになる。

洞窟を出よ。

(洞窟を出たとたんに、その姿が「本音怪獣」に変換されちゃうメディア環境が話をややこしくしているのも確かだとはいえ、庶民のウサワ話とは今も昔もそういうものだ。)