土を耕す

また揚げ足取りだと言われそうなので心苦しいのだが、父が死んでから母はやはり昔の思い出話をすることが多くなって、私も遅ればせの親孝行半分、話自体が面白いの半分で、郷里、鹿児島の農家の娘だった頃のあれこれを毎週のように聞くのです。

なので、まあ、茶飲み話程度に受け流してくださりませ。

      • -

改めて母から聞けば聞くほど思うのは、農業は産業だ、ということです。

農耕という言葉がありますけど、「耕す」ってどういうことか知ってます。

土は根が問題なく広がるように、やわらかく掘り起こしておかないとアカンらしいのです。もちろん、石ころなんかは全部どけとかなければいけない。そうしないと、人参や大根がまっすぐ生えない。鹿児島名産サツマイモだって、そうですね。

(あと、水と空気がいい感じに地中で回るように、というのもありそうですね。シロウト考えですけれど。)

そうして、土だったら何でもいいかというと、そうではなくて、作物によって色々下ごしらえしないといけないことがあるらしい。肥料というやつですね。

出荷して高く売れるものを特別に作るときは、出来合の肥料を購入して、土に「投資」することもあるのだろうけれど、それができるかどうかは、ケース・バイ・ケースですよね。既存の設備で細く長い商売するか、どかんと新しい設備を借り入れて、高い利益率を狙うのか、そこは経営判断による、というのは、普通の商売と一緒と思われます。

で、灰とか腐葉土とかで十分なこともあるらしいのだけれど、じゃあ、灰や腐葉土は天然自然にできるかというとそうじゃなくて、これは、家で作るわけですよ。炭を燃やせば灰になるし、庭の落ち葉を集めて積んだら腐葉土になる。

それじゃあ、炭はどうするかというと、山から切り出してくるわけで、山にちょうどいい木が生えているのは、そのように植林しているから。庭に良い感じに落ち葉がたまるのも、そういう木を植えてるからですね。

パソコンが、買ってきただけではタダの箱で、ソフトウェア入れたり、周辺器機を揃えたり、電話回線でネットにつないだりしないと物事が回らないのと、農業も一緒みたいです。

農地の「土」は、天然自然の「大地」なるものとは随分様子が違って、人工的な環境に編み込まれている。

(まあ、それを言うなら、学校とか会社だって、天然自然に人が集まってるんじゃなしに、人工的に選抜して集めたわけだし、農村でおなじみの農地と、都会でおなじみのゲゼルシャフト系人間集団を比較して論じるのは無意味じゃないかもしれないけどね。

そして、「都会の人間は農村を知らんから、アカンのや」という主張もありだとは思う。

でもそれは、自然と人為の対立というより、産業として先輩格の農業の目からみたときに、当節のニッポンの会社・組織の運営は、まだまだ「青臭い」し、いまいち「地に足が付いていない」ところがある、とか、そういう話。先代と当代の世代間論争みたいな関係じゃないかなあ、という気がしないでもない。

あと、「トップだけ残してあとは首を切ってしまえ」が乱暴なのは、農業との比較で言えば、そもそもそんな発想は、持続可能な産業ではなく、胡蝶蘭とか観葉植物の鉢植えや切り花をパーティ会場に飾るその場しのぎの成金趣味ではないか、とか、そういう言い方にしたほうが強いんとちゃうやろか。

うちの母親が知っているのは、江戸の終わりか明治に入ってようやく開墾された大隅半島のシラス台地の農業なので、「人工的・近代的」な度合いが高いかもしれないけれど、Dash村をみても、昭和前期から中期の専業農家は、おおむね、似たようなものみたいですよね。

ただし、そのような昭和前期モデルの農業は、もう維持不可能になりつつあったのだろうし、事実、うちの両親は、子どもの頃「これはもうやっとれん」と思ったから勉強して職を得たはずで、失われたものを振り返ってそこに「理念型」を見いだしているようなところがあるとは思いますけどね。)

P. S.

「資料は耕さないと死ぬんです」

資料の収集・管理をずっとやって来られた先生が、ふと、こういう言葉を漏らされたのに感動して以来、「耕す」という言葉は、わたくしにとって、秘かなマイブームでもあったりします。倉庫にただ積み上げておいても、資料は豊かな実りをもたらす「土壌」にはならんのよ。