官僚制を考える(1)

怒りが佳境に入ったところで申し訳ないのだが、結局、企業・団体を官僚制風に組織するのは、個人が無限責任を負わないでいいためだよね。

うまくいかなくなったら、そのような企業・団体は解散して、そこから個人を解放する。

この手のしくみは、泣こうが叫ぼうが、爆発するときには、かならず脱出「させられて」しまいます。これは、そういうものだ。組織・団体とその構成員である個人は、どうあがいても、一体ではあり得ない。

何かに身も心も捧げる人生を送りたいなら、そもそも、そんな「有限」にしか責任を負うことの出来ないしくみにコミットしちゃダメだ、ということになるだろう。

(無限責任を負うのは常人には辛いので、普通は「責任が有限でよかった」となるはずなのだが、本気で「身も心も」と言うのであれば、他人がそれを押しとどめる権利はない。)

しかし、勘違いなのか自ら望んでなのか、は知らないけれども、既にそのような組織・団体の構成員になってしまっているのであれば、その組織・団体は、ドライで非人情なのかもしれないけれども、個人を免責して脱出させる形でしか「終わり」を迎えることができないのだから、あとは、どうしても残したいものをどうやって、そのタメなのかもしれないしくみから切り離して残すかを考えるしかないだろう。

もちろん、本当にダメなんだったら、という最終段階での判断の話だが。

窮状を訴えて部外者の感情移入を求めるのは、イザというときにオレを見捨てないでくれ、以上の効果はないよなあ、と思う。

で、キミはいったい、現在その組織の組み込まれている事柄のうちで「何」を守り、残したいのか。そこがわからないかぎり、部外者は何もできない。