テレビ批判の基礎

新聞に出る文章が各社様々、玉石混合なのは昨日今日のことではないので、「マスコミの自粛はけしからん」というのは、主としてテレビ批判ですよね。

いまだに、あの番組のここはこうで、あそこはああだ、と具体的な批判を口にできるほどテレビをみている人が「言論人」のなかにそれなりの数いるらしいことに、まず驚く。

ひょっとすると、「言論人」(とりわけリベラル)が高齢化して、時間がたくさんあるから、ついテレビをみてしまう、とか、そういうことなのだろうか。

今後、テレビ批判をするときには、一日の平均テレビ視聴時間、毎日毎週必ずみる番組はどれか、というのを是非、参考資料として言い添えて欲しい気がします(内田樹さん、とか)。

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内田樹は、随分前に、待ち時間が長すぎるのでテレビには出ない、と宣言していたはず。

テレビ放送は、図体がでかくて、融通のきかない鈍重なシステムなんだと思うんですよ。

(撮影に関しては、映画より「進んだ」技術を先に取り入れたけれども、スタジオや放送の設備まで考えると、テレビは、映画とどちらがどうと言えないくらいに巨大で大げさで鈍重ですよね。)

マクルーハンが「熱い/冷たい」の二分法を試みにメディア論にもちこんだときに、ラジオは「熱い」、テレビは「冷たい」と言ったのもたぶんそういうことで、あれは、図体がでかく、融通のきかない鈍重なメディアが居間にデンと鎮座していて、視る人が気を抜いてダラダラとながめている分には相対的に刺激的で面白く感じるけれども、焦燥に駆られている人がみたら、「何やってんだ、しっかりせんかい」とイライラしてくる、世間に向かって言いたいことがある人が見たら、「どうして肝心なことを言わないのか、表現の自由の理念はどこへいった」と腹が立つ。

仏像やイコンが、前に立つ者の心持ち次第で様々な表情にみえる、というような宗教的な媒体(メディア)と比較しながら考えたい何かがあるように思います。

そしてテレビというのは昔からそうなんで、もし、「今のテレビの自粛ムードはいかがなものか」と苦言を呈したい思いが視聴者の間に募っているのだとしたら、それは、テレビがどう、というよりも、みているあなた自身に「自粛せずに言いたいことが何かある」のだろうと思う。

テレビ(マスコミ)に仮託してものを言おうとすると、話が屈折してややこしくなるだけだから、面と向かってストレートに、これはこうじゃないか、と言い合ったら、それで済む話なんとちゃいますか。

テレビをみながら、

A「この司会者、何に遠慮してるんだろうね」B「官邸が放送局に圧力をかけたらしいよ」A「へえ、そうなんだ、嫌な時代だね」B「そうだね」……

というのは、狭苦しい部屋のなかで、壁に向かって二人が交互にボールを打つ変形テニス(スカッシュって言うんですか)みたいだよね。

テニスはお天道様の下の見晴らしの良い屋外コートでやればいいのに(笑)。

「マスコミの自粛は、現代日本の大問題である」

とそこに焦点を当てて騒ぐと、むしろみんな、テレビにはいまだに視るべき何かがあると勘違いして、かえってテレビに釘付けになり、益々「あら探し」に夢中になっちゃうかもよ。それは、戦術として筋が悪いのではなかろうか。

(あと、緊急放送としての機動力も、ラジオのほうがはるかに高いわけであって、電波を許認可で統治する、というのは、ほんまに現状がこれでいいのか、よくわからないところがありそうですよね。言論の弾圧とか、そいうことでなしに、テレビ放送って何なのか、もっとドライに議論されていい。)