発掘なき考古学の怪

人文学者のみなさま!

まさか、とは思いますが、自分が体験的に知らない時代の感覚・知覚を仮説的に再構成する作業は、すべて「アルケオロジー」と呼んで良い、などと思ったりしていないでしょうね。

それはごく普通の歴史学(もしくは文学)ではないのか。少なくとも、今ではもう、それは歴史学に回収されてしまっているのではないか。

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「考古学」って出るか出ないかわからない遺跡を発見するべく地面を掘る「野外学者」が文献学者に敵意を燃やして使うずいぶんと山師的な言葉やったはずと思うけどいまや文献学者がおおっぴらに「アルケオロジー」を自称するのが普通になってしまった。しまいには若い人が自分から「視覚のアルケオロジー」「聴覚のアルケオロジー」とか言い始めている。なんというか『知の欺瞞』を思い出す

おや、この構文は案外使い勝手がいいじゃないか。使える構文は使わせてもらおう。

メディア考古学:過去・現在・未来の対話のために

メディア考古学:過去・現在・未来の対話のために

視聴覚メディアの歴史をアルケオロジーいうてええ、というネタ元はこのあたりなのでしょうか。

表象〈09〉:音と聴取のアルケオロジー

表象〈09〉:音と聴取のアルケオロジー

しかし同時多発でアルケオロジー、アルケオロジーって、みなさん、どういうタイトルをかっこいいと思うか、発想が似通い過ぎているのではないでしょうか。

知の考古学 (河出文庫)

知の考古学 (河出文庫)

図書館に籠もる文献研究が野外学者からアルケオロジーの語を簒奪した元祖がこれなのは間違いなさそうですが、みなさん、フーコー様にあやかりたいと思いすぎなんじゃないでしょうか。

日本の人文学は、いくらなんでも「インドア派」過ぎるような気がします。

書斎と図書館と博物館を往復するだけで、土埃にまみれて日焼けしたり、足を棒にして歩き回ることのないアルケオロジーとはいかがなものか(笑)。

文科省が書類作成のために人文学者をデスクワークに縛り付けようとしているのは知っていますが、だったら、本物の「考古学」でバシバシ出張費を使って、合法的に研究室の外へ出てしまえばいいのに。

現状にうんざりして、日本の学者には、今潜在的な亡命願望が強いとも聞きますが、大学の外へ出て、外部の人間に接触する機会を増やさないと、亡命などおぼつかないと思いますよっ!

「動かなすぎてはいけない」