フーコーとかそのあたりが「知のアルケオロジー」を言い出したのは、
- (a) 図書館に籠もる文献研究もまた行動である、それこそが人文学者の行動である
というのと、
- (b) 言葉(主として書き言葉=文字)は仮象ではなく物質である
というのがある、という理解でいいのでしょうか。
考古学者が土を掘るのだとしたら、文献学者は文字(の集積であるところの書物が山と積まれた図書館・文書館)を掘削している。
フーコーの20世紀後半は、(a)で学生運動の人たちに応答して、「エクリチュールの発見」みたいのをこれにつなげるために(b)を主張した。
でも、21世紀にまだ、これが通用するのかどうか。
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ひょっとすると、フランス現代思想でエクリチュール派な元東大総長が、「掘れるもんなら掘ってみやがれ」と言わんばかりに文字がびっしり詰まった岩盤のような本を出したのと、「アルケオロジー」の氾濫は、同じ時代の同じ都市(東京)の出来事なんですかね。蓮實重彦のボヴァリー夫人は、もちろん「考古学」ではなく、ひたすら文献学だと思いますけれども……。
油断しているとグラグラ揺れる地面の上に住んでいることを思い知らされたあとだからこそ、掘り進むのに苦労する岩盤を希求し、それを現実の地面とは別の次元に求めたいのかもしれない。
それが今の人文学の「通奏低音」……だったりして。
(東京にちなんで丸山眞男ワードを最後に使ってみた)