現在形の偽

偽善が積もると、ごく稀に善に転じることがあり、稀であるがゆえに大きく喧伝されて偽善のイメージアップに貢献するが、偽善から善への移行が偶然なのか必然なのか、おそらく立証不可能な信仰の領域である。だからといって、白黒はっきりせよと迫るのは、むしろ弊害が大きいとは思うし、グレーゾーンを想定しないと、おそらく中間社会もしくは大衆社会は回らない。(各宗派における寛容の教義を参照のこと。)

偽悪が積もると、ごく稀に悪に転じることがあり、稀であるがゆえに大きく喧伝されて偽悪のイメージダウンに貢献するが、偽悪から悪への移行が偶然なのか必然なのか、おそらく立証不可能な偏見の領域である。だからといって、白黒はっきりせよと迫るのは、むしろ弊害が大きいとは思うし、グレーゾーンを想定しないと、おそらく中間社会もしくは大衆社会は回らない。(ゲーム中毒は凶悪犯罪の温床か?等の議論を参照のこと。)

いずれにせよ、偽善は善い/偽善で十分、偽悪は悪い/既にアウト、と太い線を引くのは、よほどの緊急事態でなければ通るまい。

「偽善でいいから私を助けて」とか、「今疑われるとヤバいから、偽悪を慎んでいただきたい」とか、あるいは今現在、どこかでそのような要請が出回っている可能性が、内外の事情で、あるところにはある、とか、そういうことか。

だとしたら、やっぱりそれは、各論で当事者・範囲・対象を特定して現在形話法で語られるべき事柄だよね。

ただし、公然化すると「偽」の曖昧さが消えてしまうから、「かのように」で関係者合意の上で当座を切り抜ける、とか、そういう話になり、

反対にしかるべき理由を掲げて「かのように」をすっぱ抜いて公然化するのが三面記事報道だ。

そして「かのように」vs三面記事の闘いは、純粋に民事だから、報道の自由(公人vs私人の闘い)ほど単純には原則が立たない。

20世紀になって、プライバシーという武器が発見・育成されはしたけれど……。

人間という生き物は、なかなか複雑なことをやりながら生きているね。

(それを丸ごと肯定するのがヒューマニズムなのであろう。……やっぱりアートは、片方の足を普遍に置いているかもしれないけれど、もう一方の足をヒューマニズムに置いているような気がするな。

だからヘーゲルは純音楽に批判的だったんだよね、たしか。単なるロッシーニ・ファンということでなく。)