ワレモノ考

自衛隊に災害制服つくったらどうかと、ファッションよりの人間としてつぶやいたところ、ひたすら、予算どうするんだというリプライばかりくる。なんだか、今の日本っぽい反応だなあ。

大学ってのは、話がうまい人が壇上で喋るところではなくて、話す価値がある人が壇上で喋るところだ。価値がある話ができるからといって、話がうまいわけではない。だから、聞く側の学生が、聴く技術を磨かなきゃいけない。てなことを、誰も言わなくなったなあ。

vs

人文系の学問の振興のための活動、人文系の学者が教育、研究の片手間にやって、なんとかなるような状況ではもうないのかもしれない。それに専念するような人がはたして現れるかどうか。

この問題の一つのキモは、こういったことについてどうすれば良いかを考えるための専門性を実は人文系の学者が持っていないのではないか、ということである。そうでないのならいいのだけれど。

引用を意味ありげに組み合わせて、何かに応答したフリをするSNS作法をまねてみた。コピペを貼り合わせてもつながらない「すきま」「つなぎめ」に問題が集約されつつあるように思うからである。

割れたものをどのようにつなげばいいか、断面を観察して、どういう風に間を埋めるのか? 一般論の一括処理を特効薬風に号令するだけではどうにもならず、ひとつひとつの「手作業」になる。

「人文」に欠けているのは、AIの花形であるところの機械学習やディープラーニングに必要なのと同じくらい膨大な「手作業」なのではないか。提案者と受け手、先生と学生、専門家と非専門家、等々といった関係者が、「手作業」を相手に押しつけ合っていると、割れた断片は、いつまでも「残骸」のままになる。

おそらく、実際の熊本城は、SNSにおける残骸発言の山とは違って、今後何十年かかったとしても、きっと修復されるであろうと私は信じている。

先日放送されたブラタモリで加藤清正の「しつこさ」を解説してくれた学芸員さんや、「あんたがたどこさ」の船場山を文献で調査している先生は、既にあれこれ考えていらっしゃるに違いない。

(2016年4月17日午前9時31分現在、井上雅人さんのツイートは一番上ですぐにみつかるが、伊藤憲二さんの4月10日の発言は、何度も何度も下へスクロールしないと見つからない。これもまた、実に泥臭い「手作業」であったことを、ご参考までに言い添えておく。「知と技術の進歩」とは、「いかに楽をするか」の競争に尽きるものではないはずだ。)