問題提起と問題解決

人文学は何の役に立つのか? - 道徳的動物日記

答えをはぐらかすから人文は信用されないんじゃないか、という指摘は、一般化すると、問題の「提起」ばかりで問題の「解決」への道筋が見えない議論に、世間はうんざりしている、ということかと思う。

有望な若手の萌芽的研究を支援する、とか、学位論文は研究者としての将来性を感じさせるものであればいいんだから、とりあえずできたところまで書いて出せ、とか、そういう構えで「若手」に投資していると、「問題提起」型の議論が量産されがちになる。

問題の「解決」への道筋を世に問うと、すぐさま検証作業がはじまって、その成果物の評価をかなり明快に出すことができる。査読に代用されるいわゆる「性善説」の研究者コミュニティは、この作業を円滑に進めることができるように編成されているはずだし、学会のような研究者コミュニティの一番の存在意義は、成果物の的確な検証ができることにあると言っていいような気がします。

一方、「問題提起」型の議論は、まだ結論が出ていない提案・予想なのだから、原理的に、研究者コミュニティが「検証」という得意技を発動できない。

じゃあどうなるかというと、「将来性」への「期待」による青田買い・先物買いの市場が開設されることになる。既に学者として一定の成果を出した人物による推薦状が研究者コミュニティで重要な役割を演じるのは、そのせいだろう。成果物ではなく、問題を提起した「人物」が評価(推薦)の対象になってしまうわけだ。

日本の最近の大学・大学院改革は、特に人文では、その種の青田買い・先物買い的な「将来性」への「期待」を推薦等で保証する、という属人評価が表に出すぎる結果を生んでいるのではないか。そしてこの風潮を逆手にとって、「とりあえず人目を引く問題提起を打ち上げ花火のように炸裂させればどうにかなる」という輩が横行した懸念があり、だから、世間から不審の目を向けられて、管理者が「検品」「在庫整理」に乗り出したのではないか。

「問題の解決」(成果)の道筋はどうなるんですか、という問いを世間が「問題提起者」に突きつける流れになるのは、だから、理不尽とはいえないし、むしろ、大筋としてはそれでいいんじゃないかと思う。